2016.9.25 第5回 上映作品  

テーマ:子供の教育について考える

映画:こどもは風をえがく  [2015年完成作品 ] 
監督|筒井勝彦 制作|オフィスハル 
話し手:筒井勝彦(映画監督)
聞き手:由井 英(映画監督)

 KEYWORDS
映画を見て思い浮かんだ参加者の言葉

  • 子供に失敗はない。
  • 子供に想定外の出来事を体験させている。
  • 自然の中での保育。
  • 虫、生き物と出会える幼稚園の庭 →「死」を感じることができる →「命」の大切さ。
  • 保護者と保育者が子供の描いた絵から彼らの成長を汲み取り共有している。
  • 子供のいい顔=あれはどこからくるのだろうか?
  • 若い保育士さん達も楽しそう。
  • ゴミを出さずに、知恵を出す。
  • 伝統的な暮らしや行事を体験させている(縄ない、節分など)。怖さ、楽しさなどいろんな感情を味わせている。
  • 幼稚園の庭が大事。草むらで生き物、土の感覚を裸足、全身で感じている。
  • 遊びが知識になっていく。
  • 子供にとっての必要な無駄。
  • レイチェルカーソンの「命」の視点から考える大切さも参考にしている。
  • 保護者と保育者がよく話し合っている姿。
  • 親も子供も一緒に育つ。
  • 親が関心を持つと子供も同じようになる。
  • 語り部のおばあさんの昔話を聞き入っている子供の顔。点字を触る指の動きを見ている。

※参加者の意図を伝えるために筆者が加筆している部分があります。

DISCUSSION
話し合い

 

  • 今回のシネマカフェは、ほとんどが初めて来た人達であり、すべて女性だった。映画の見て一人の人が挙げたキーワードは、これまでになく一番多かった。6枚渡した大きめの付箋にしっかり隅々まで言葉を書き込んだ人もいた。その理由にはやはり「こどもは風をえがく」という映画が持つ魅力にあるのだと思う。映画が変われば、見に来る人も変わるということなのだろう。

  • 映画は、中瀬幼稚園(東京都杉並区)の子どもたちの姿を一年に渡って追っているドキュメンタリー映画である。しかし撮影は2年から3年かかっているという。この映画にはナレーションが一切ない。ほぼ2時間近く作品の中で園長の言葉が入る以外ほとんど解説らしいものはない。観客は映画の始めから最後まで子どもたちの成長を彩り鮮やかな四季の移り変わりとともに見ていく。子どもたちの姿にハラハラドキドキし、ニッコリと笑い、なぜかしんみりとする。観客は子どもたちが体験したことをまるで自分のことのように感じることができる。そうした臨場感をこの映画が湛えているのは、編集の切れ味によるところが大きいと思う。子どもたちの動きのリズムを映画のリズムとして見事に取り込んでいる。音楽はやや多く付けすぎている印象はあるものの、映像を超えて、あるいは作品を超えて、監督の意図を音楽で表現しようとするような使い方を極力せず、映画が感傷的になるのを寸前で抑えている。またカメラはカメラマンの目であり、監督の目であるにもかかわらず、観客はそれを一切感じることなく、まるで自分の目のように子どもたちの姿を自然に追っていくことができる。結果的に監督の意図した映画の作りは見事に成功している。
  1. 中瀬幼稚園の節分
    映画は冬に始まり、冬に戻ってくることで終わる。映画の前半でなんといっても目を見張るのは節分を迎える子どもたちの姿だろう。園内にある旗を掲げるポールにはこの日に限って、保育士の手作りによる鬼が高々と掲げられている。親御さんに送られ、園内に入ってくる子どもたち。鬼を気にしながら教室に入っていく。鬼は高みで風に吹かれ、顔や手足をゆらゆらゆらと動かしている。鬼に注ぐ子どもたちの眼差しからは、彼らがいつもと異なる園内の雰囲気を敏感に感じているのが観客にもわかる。こうした何気ないショットの使い方が実にうまい。やがて金棒を手に持った鬼の登場に泣き叫ぶ子供たちの姿とのギャップを引き立てる起点になる。嵐の激しさを伝えるためには、その来襲を予感させる穏やかな静けさが必要なのだ。

    この節分のシーンでは、同じ映像を見ても見る人によって「視点の深度や角度」が異なるという映画の特徴を改めて感じることになった。映画を見て終わりではなく、参加者が視点を持ち寄り、交わしあうことで自分では気づかなかった映画の楽しみを見つけてみようという思いからシネマカフェは始めたわけだが、今回は私自身がそれを感じることになった。

    節分のシーンを見て私が考えたことを端的に言えば、次のようになる。日本の伝統行事を取り入れている幼稚園側の(保育者側の)意図はどのようなものだろうか。日本の伝統行事には子どもを怖がらせ、泣かせる行事はたくさんある。それはきっと幼いある特別な時期に(怖がる時期に)「恐れ」を抱かせることによって子どもを躾けると同時に目に見えない存在や世界を感じる心を育てることにあるのだろう。私は教室を逃げ惑い、泣きじゃくる子どもたちの姿を見ながら幼い子供だけが持つあの貴重な時期についてつらつらと考えを巡らしていた。

    上映後、ある参加者からは節分について話が挙げられた。話の内容はその人が付箋に書いたキーワードに端的に表わされている。

    節分:怖がらずやさしく接する子、鬼に向かっていく子、助けを呼ぶ子、助ける子、隠れる子、慰める子

    「恐れ」に対する子どもの反応は一様ではない。しかもみんなが鬼を恐れているわけではないのだ。これらのキーワードによって、「実は私は何も見ていなかった」ということに気づかされた。私は自分が塗り固めてきた見識や体験の枠組みの中で映像を追っているにすぎなかった。節分、鬼、怖がる子ども…。子供は鬼を怖がるものという、私の中で出来上がったイメージで節分のシーンを見ていたと言わざると得ない。

    人の目にはどうしても盲点がある。映画を見る目も例外ではないのだろう。自分が見えているものが実態と解釈してしまう傾向がある。しかし人ひとりが見えるものは実態のほんの一部に過ぎない。しかも自分が一部しか見えていないということに、自分で気づくことはかなり難しい。それを他の人から教えてもらうことによって初めて、自分の見識を広げることができる。私はそのことを体験することになった。

  2. 中瀬幼稚園の庭
    寄せられたキーワードの中で、共通していたものに「子どもには失敗がない」という言葉があった。まさに子供たちはめぐる季節のもとで様々なことを体験する。その舞台は草むらだ。中瀬幼稚園の庭には、草むらが大切に育てられている。挿し芽をして親も子供も保育士も庭の草をみんなで育てている。草むらは様々な花を咲かせ、虫やカエルの住処となり、木を養い、鳥が羽根を休める場所も作る。子どもたちは鳥のさえずりに立ち止まり、虫の羽音に耳をすませ、花の匂いを嗅ぐ。蝶や蛾を捕まえ、虫かごに入れてはいろんな角度から眺め、かわいそうだと逃がす。

    草むらが生い茂った庭で、縄をない、粘土で遊び、木端を削り、トンカチを使って釘打ちもする。落ち葉を集め堆肥を作り、畑の肥やしにする。畑ではサツマイモを育て、収穫する。こうした子供たちの姿を見ていると、幼い頃は自分より自分の身の回りの世界に興味があるのではないかと思えてくる。それが大人になるにつれていつしか自分を知りたくなる。自分を伝えたくなる。社会に出れば、好むと好まざると自分の考えをきちんと主張するように要求される。自分がどういう考えを持ち、何に興味があるのか説明しなければならないのだ。人によってはそれでかなり苦しむことになる。自分探しの旅に出る。やがて自分を探すのは簡単ではないことに気づく。ところが、子供の頃は自分なんて全く興味の対象ですらないのだ。そう思うと肩の力が程よく抜けてくる。自分なんて探す必要はないのだと…

    園長の言葉によれば、子どもが自分に気持ちを向け始めるのは4歳頃だという。子どもが描いた絵が教えてくれるという。子どもの成長を推し量るために、絵は有効な手がかりのようだ。一見、子供を自由奔放に遊ばせているかのように見えるが、園長や保育士たちの眼差しは子どもたちを緩やかに包み込みながら隅々まで行き届いている。子供の動きの変化から微妙な気持ちの揺れを感じ取り、彼らの成長を見守っている。

  3. 子どもたちの描く絵の違い(3歳児、4歳児、5歳児の絵)
    3歳から5歳の間に描く絵の違いなどあるのだろうかと皆さんは思うかもしれない。しかし映画を見て、園長の話を聞くと驚くほど大きな違いがあることに気づくだろう。子どもたちは畑で育てたサツマイモを描いている。

    3歳児の絵は、それがサツマイモを描いているとわかるものはほとんどない。色や形などはサツマイモに程遠く、描いているものは画用紙から自由に(あるいは、独創的に)はみ出ててしまう。最初にサツマイモを描こうと思っても、書き出した途端に気持ちは変わってしまっている。子どもたちが気持ちがいいと思い始めたのは例えば、筆を使って描く感触、色の鮮やかさ。その感触を何度も何度も味わうように、筆をグルグルグルグルと回して描き、用紙をはみ出して床やTシャツ、時には顔にまで描いていく。もはやこの時期の子どもにとって、何かを描くという最初の目的はどうでもよく、絵を描いていることそのものが楽しいと思っているのだろう。

    それが4歳児になるとサツマイモだと観る側にわかるような絵に変わっていく。対象を自分と切り離して客観的に捉えられるようになってくるということなのだろう。しかし目で見た3次元の世界を2次元の画用紙に描くもどかしさも感じているようで、それぞれのモチーフのバランスは全く取れていないし、当然ながら絵の視点も定まっていない。どこから見た絵なのかわからず、どこからでも見た絵になっている。

    驚くことに5歳児になると、サツマイモが畑でどのようになっているか分かるように描かれる。芋や蔓はバランスよく配置され、色付けも正確になり、土や太陽が見る側に分かるようにきちんと描かれる。しかし、3歳児が描いたような「楽しい」、「嬉しい」という気持ちが溢れるような絵にはなっていない。そういう気持ちが絵から失われてしまっている。園長によれば、それが人が成長するということであり、大人になることだという。私はその言葉を耳にして、なぜかとても悲しくなってしまった。なぜだろう。

    この映画を見て私の記憶に残る映像は、何と言っても3歳児の子供が筆をグルグル回して、カラフルな色を塗りたくっているところだ。きっと自分の中にもあったあの頃の感覚をどこかで手繰り寄せ、取り戻したいと思っているのだろう。大人になるということは、やはり何かを失うということなのかもしれない。それに引き換え、私たちは何を得たのだろうか。何か得たのだろうか。

文:由井 英(映画監督)

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