第4回 シネマカフェ上映作品 2016.7.24

THEME
テーマ

今、問われている幸せとは? 真の豊かさとは?

CINEMA
映 画

幸せの経済学 [2010年/68分 ] 
監督: ヘレナ・ノーバーク=ホッジ、スティーブ・ゴーリック、ジョン・ページ
配給: ユナイテッドピープル株式会社

お話:アーヤ 藍|ユナイテッドピープル株式会社 取締役副社長
聞き手:由井 英|映画監督/ささらプロダクション

KEY WORDS
参加者の言葉

・参加者の戸惑いはどこから生まれたのか。

今回は参加者からキーワードが積極的に挙げられなかった。むしろ戸惑いようのなものが感じられた。これまでシネマカフェを開催し続けてきた中で、このような出来事は全く初めてのことだった。シネマカフェでは毎回、映画を見て思い浮かんだ言葉をキーワードとして参加者に挙げてもらう。上映後のディスカッションはそのキーワードをもとに始められる。映画関係者をゲストとしてお招きするが、映画に関する解説はほとんどしない。一般的な上映会にような質疑応答も行わない。参加者の簡単な自己紹介の後、キーワードをもとにゆるやかに話し合いが始まる。キーワードが何よりも要となる。そこにスルガ銀行二子玉川支店/d−laboで行われるシネマカフェの特徴があると思う。

そのキーワードが今回は挙げられなかったのだ。もちろん全く挙げられなかったわけではない。「つながり」、「グローバリズム」、「ローカリズム」、「幸せの測定法」など幾つかは挙げられた。しかしそれらは映画の内容を示す言葉であり、そこに参加者の内的な問題意識は読み取れない。ディスカッションに必要なのは、キーワードに込められた参加者の問題意識なのだ。問題意識というと堅苦しいが、むしろ日頃の暮らの中でそれぞれがなんとなく抱えている疑問といった方が当たっていると思う。そうした問いが映画を見ることをきっかけに浮かび上がってくる。

今回キーワードが挙げられなかったのは、なぜだろうか。そこには参加者側の問題があったのでもなく、映画のテーマに問題があったわけでもないと私は考えている。むしろ、映画の特徴的な「作り方」に影響を受けたからではないだろうか。

DISCUSSION
話し合い

・特徴的な映画の作り

「幸せの経済学」という映画を見た人の中には、この映画に特徴的な作り方などあっただろうかと疑問に思う人もいるだろう。わからないではない。実際のところ映画の構成はものすごくシンプルにできている。

端的に言えば、前半はグローバリズムがどのようなシステムによって成り立っているのかを解説し、それが世界各国に与える影響や問題を取り上げ、後半はそれに変わるシステムとして、いかにローカリズムが有効であるかを描いている。しかしその二つのシステムを解説する情報量はあまりにも多い。一度映画を見ただけで全てを理解するのは難しいのではないかと思うほどだ。実はそこに、参加者の戸惑いがあったのではなかろうか。つまり映画に描かれている情報を受け止めるだけで精一杯で、それを自分が咀嚼し、体内で自らの問いと照らし合わせて発酵させ、言葉として外に出すまでの余裕がなかったのではないか。

ただし、前半のグローバリズムの成り立ちとその影響を描くシーンは、情報量が多かったとはいえ、見応えのあるものだった。まず、グローバリズムの牽引役であるアメリカ人自身が、その問題をどう捉えているのか知ることができたのは貴重だった。グローバリズムが何を目的とし、どのように作られてきたのか。映画の製作者の考えを知ることができた。その中で私が印象的に感じた点を幾つか例をあげて述べたいと思う。

・自分らしくなれる。この商品を買えば…

映画を見ながら取ったメモを改めて見ると、グローバリズムの問題に関してはおよそ次のようなものが挙げられていたと思う。項目はあくまでも私のメモであり、およその内容とご理解いただきたい。

1. 人を不幸にする 2. 不安を掻き立てる(比較と競争) 3. 自然資源を浪費する 4. 気候を激変させる 5. 敗者を生む 6. 大企業がはびこる 7. 誤った会計の上に成り立つ…

この中で私が一番気になったのは2番目。グローバリズムが比較と競争によって人々の不安を掻き立てているという指摘。映画ではグローバリズムのルーツとして西洋文明が主にアジアやアフリカ、南米などを植民地支配した時代に遡っている。それらの国々を支配下に置くために意図的に行ってきた政策があるという。それは、相手に(相手の国に)劣等感を抱かせること。西洋文明はアジアやアフリカの国々を貧しいと見下しただけでなく、そうした自分たちの価値観を周到な施策によって相手に植え付けさせたという(洗脳したというと言い過ぎだろうか)。人は自らの暮らしを貧しいとは思わない。他の暮らしと比較することで「貧しいと思うようになる」というわけだ。そもそも人は、なぜ自分は他人よりも優れていると思うのか。

白人の入植者の多くは、ニューギニア人を「原始的」だと、あからさまに見下した。一九七二年当時においても、もっとも無能の「ご主人さま(マスター)」でも、ニューギニア人よりはるかに生活水準は高く、ヤリのようなニューギニア人のカリスマ的な政治家より暮らし向きが良かった。

ジャレド・ダイアモンド著/倉骨彰 訳/草思社文庫「銃・病原菌・鉄(上巻)」より

私が映画を見ながら思い浮かべていたのは、まさにこのジャレド・ダイアモンドに「銃・病原菌・鉄」という本を書かせるきっかけになった人、ニューギニア人のヤリのことだった。ダイアモンドはヤリとの対話の中で、なぜ文字を持ち、金属器を使った文明がそれらを持たない文明(狩猟や採集を主体とした文明と言えるのかもしれない)を征服し、時には絶滅させてしまったのかという文明格差の根源的な問いに気づいたという。その格差が生まれる理由についてはダイアモンドの著作を読んで欲しいが、私は映画を見ながら、なぜ西洋文明がこんなにも自分の土地を離れて他の土地に執拗に進出しようとするのだろうかと考えていた。そして、ヤリがダイヤモンドに投げかけたという次の問いを思い浮かべないわけにはいかなかった。

あなたがた白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、わたしたちニューギニア人には自分たちのものと思えるものがほとんどない。それはなぜだろうか?

ヤリの言葉/同著作より

ヤリの言葉は、なぜ西洋文明がニューギニアを植民地化できたのかという問いに留まってはいない。西洋文明と自分たちの文明の差はどこから生まれてきたのか。なぜ、持てる者と持たざる者が生まれるのか。彼の問いの真意はその辺りにあるのではないか。

ひとたび相手を(相手の国を)「貧しい」と思わせることに成功すると、貿易が始まる。持てる者と持たざる者がはっきりとし、持たない者を持ちたくさせる。国の規制を緩和させて門戸をこじ開け(時には戦争によって)、資本が投下され援助(賠償)という名の借金を負わせる。政府に支援を受けた大企業がこぞって進出し、そこから誰もが逃れることのできない消費社会のループが始まる。結果的に我々は物を買うことで幸せになれると思わされる。映画は概ねそうした論旨で説明していたと思う。

戦後、西洋文明の広告塔としてマスメディアの存在が挙げられていたことは注目に値する。マスメディアの広告は持てる者と持たざる者を差別化して際立たせ、持たざる者に劣等感を抱かせ、不安を掻き立ててきた。我々の家庭には毎日のようにCMが届けられる。「自分らしくなれる。この商品を買えば…」と。最初はこのようなCMにどこか違和感を感じながらも、繰り返し見続けているうちに、次第に疑問を持つことはなくなっていく。その一方で持たないことの不安は時を追うごとに増幅される。まるでその不安を埋め合わせるかのように物を買い、消費社会のループに取り込まれていく。

ここまで来ると私たちはもはや自分の価値観で物を買うことはできないのかもしれない。自分が買うのではなく、何者かによって買わされている。そのことに気付くことすら無くなっていく。例えば、消費者という言葉にもあるように、私たちがものを買うことの意味は大きくずれてきている。買うことは消費することなのだろうか。買うことはものづくりを通してその仕事を生み出した人々を支援する行為でもあるのではないか。消費者という言葉からそうした意味を汲み取ることは難しい。さらに問題は仕事の価値を我々がきちっと判断してものを買っているかということにある。マスメディアも、製品を前面に出し、ものの背景にある「バックグラウンド ストーリー」を端折って広告してきた傾向がある。もっと作り手の思いが伝わるような広告のあり方があってもよいのではないか。

映画ではグローバリズムの問題をメモ書きに書いてあるような点をあげて次々と指摘し、それに代わるシステムとして次第にローカリズムに焦点を当てていく。ローカリズムの有効性について映画がどのように指摘しているのかは、ここでは触れない。ぜひ映画を見て欲しい。

最後に、「映画の作り」についてもうひとつ触れておきたい。映画に限らず作品は作り手の意図をもとに生み出される。意図のない作品はないだろう。しかし、作り手が自分の意図をどのように、どの程度、作品に反映させるのかは、それぞれの作家に委ねられる。それを作家の表現と捉える人もいるだろうし、そこから作家の「人となり」を想像することもできるかもしれない。抑制の効いた文章が好きな人もいるだろうし、歯切れよく作家が主張した文章が好きな人もいるだろう。

幸せの経済学という映画は、作家の意図が色濃く反映された、啓蒙的な映画と言える。作家の論旨は明快だ。グローバリズムは問題があり、ローカリズムは有効である。しかし、この映画の論旨の展開(映画の運び)は少し単純すぎはしないか。作家が自分の意図へ(それがどういう意図であれ)観客を導こうとする力があまりにも強すぎる。もう少し観客が考えを巡らせることのできる多様な意見を盛り込みながら作れないものだろうか。

映画ではローカリズムが有効に働いている例としてラダックに注目していく。土地に根ざした暮らしが人々の絆を育み、みんなが助け合い、幸せに暮らしているとする。まるで現代の桃源郷を見つけたかのようにラダックの人々に注ぐ映画の視点に違和感を感じる。人は土地に根ざした暮らしをするだけで絆を育むことはできないだろう。

これまでシネマカフェで紹介した「うつし世の静寂に」という作品では、村々で営まれてきた行事である「講」に注目した。講は家の座敷で行われ、神仏が描かれた掛け軸が掲げられる。人々はその神仏を宗教的な神、仏として捉えるというよりは、そこに先祖の姿や土地の風土を思い描き、そうした人間を超えた存在を暮らしの中心に置くことで、人は自らの欲をおさえ、謙虚な暮らしを営み、絆を育むことができた。「久高オデッセイ」では、久高島の人々が島の大地を個人で所有することなく、むしろ、誰のものでもないもの、人間のものではないものとしていたことで結果的に島を守ることができたのではないかということが指摘された。

土地に根ざすことだけで絆が育まれたのではなく、人の欲を抑える仕組みを作り上げたことにこそ、東洋の叡智があった。人の欲は歯止めのきかない恐ろしいものだということを我々の先祖は気づいていたのだろう。そうであるならばグローバリズムでは人の欲望をどう扱っているのか。消費を生み出すために野放しにしているのではないか。そうしたグローバリズムに東洋の叡智は完全に飲み込まれてしまったのか。この映画を見た参加者からは人の欲望について改めて考えさせられたという感想が寄せられた。

アメリカでは、あるいは西洋文明は人の欲望をどのようにとらえているのか。我々の知りたいのはそこにある。

文:由井 英(映画監督)