2016.3.21 第2回 上映作品  

テーマ:祈りを暮らし

映画:久高オデッセイ 第一部 結章  [2006年完成 ] 
監督|大重潤一郎 制作|沖縄映像文化研究所
講師:SUGEE氏(音と植栽空間コーディネーター)
聞き手:由井 英(ささらプロダクション)

 KEYWORDS
参加者の言葉

  • 女は神んちゅー 男は海んちゅー
  • 土地は神様からの借り物であり、売買はできない。
  • 結びの祭り(願いをたて、願いを結ぶ)
  • イザイホーの継承やサバニの伝統が途絶えていくこと。
  • 神と人間をつなぐ島:久高島
  • 米寿の88歳は「きっかり」という言葉。きっかり生死の境。次の年から生まれ変わる。
  • (祖霊)に詫びるという言葉。(イザイホーが途絶えていることについて)
  • 子供の頃から行事に参加することの大切さ。
  • 女性がイメージが多いが男性が担う儀式もあり、すべての人が関わっている
  • 祈りと近代化とを、どのように折り合いをつければいいのか。
  • 肉を脱ぎ捨て清らかな骨となってニライカナイへ
  • 私達が受け継いでいる宗教性、精神性についてもう一度考え直してみたい。

※言葉の意図を伝えるため加筆しています。

DISCUSSION
話し合い

 

  • キーワードを元に話を深めていくうちに、主に二つのテーマにまとめられた。
    土地の「所有」に関する問題と後継者問題である。
  1. 土地の「所有」に関する問題
     久高島では古来、「土地は神からの借りもの」であり、今でも個人で所有するという意識は薄いという。そうした島の暮らしをさりげなく描いたシーンに(映画の本筋ではなく)参加者の多くが気を留めていたのは、とても新鮮だった。それは、翻って人間が土地を管理し「売買すること」が、私たちの日常になっていることの裏返しではないか。
     かつては島のみならず本土の村落社会でも、いりあい地や共同で管理する山など「誰のものでもない土地」を持っていた。「誰のものでもない土地」とは、個人的に所有できない土地であり、人と人、人と風土(自然)の緩衝材としてかつての村落社会を支えてきた。したがって、「誰のものでもない土地」は、「みんなの土地」という言葉に置き換えることはできない。なぜならば、そこには「人間のものではない」という意味を含まれるからだ。それは、土地は神からの借り物であるという久高の人々の精神文化に近い。「人間の世界」を超えた存在を意識し、自らの内にはびこる欲を戒め、生きることに対して謙虚になることもできた。
     参加者の問いはさらに「本来人間のものでないはずの土地が、なぜ人間のものになったのか」というところまで及んだ。改めて考えてみると、土地を売買することは近代化の象徴のようにも思えてくる。こうした深い問い対してひとつの答えを導き出し決論づけるのではなく、これからもシネマカフェを重ね、様々な映画作品と出会う中でいろんな考え方を参加者と共に探っていきたい。

  2. 後継者問題
     12年に一度の儀礼イザイホーは、1978年を最後に行われていない。そこにはイザイホーを担う30歳から42歳までの島で育った女性が減少していることがあるという。参加者からのキーワードにもあるが、儀礼が続けられなくなったことに対し、神(祖霊)に詫びている老婆の姿は私の心にも残る場面だった。日頃、我々は「願いごと」を叶えるために神仏に手をあわせる。ところが「神仏に詫びる」という島の老婆の行為の中に、何か特別なつながりを参加者は感じたのだろう。
     イザイホーが続けられなくなったことは、少なくともこの映画の第一部において、監督の中に常に置かれている大きな問題意識であると思うが、不思議なことに、映画の中でその問い対する答えを探求しているような意図は感じられない。むしろその現実を捉えつつも、いまの暮らしの実態をできるだけ様々な角度から記録したいという気持ちが働いているように感じた。そこには久高島をイザイホーという儀礼だけでステレオタイプ的に切り取ることをせずに、まずは「ありのままの今の島の暮らしを見て欲しい」という監督の願いが込められているのかもしれない。
     講師のSUGEEさんからとても印象深い言葉を聞いた。「儀礼は途絶えているように見えても、祖霊への祈りの行為は続いている」
     もしかしたら参加者は「詫びる」という行為の中に、「儀礼という形はなくとも、続いている祈り」を敏感に感じ取ったのではないだろうか。イザイホーという儀礼は琉球王朝から与えられた「形」にすぎないという考え方があるそうだが、大事なのはいま目の前で為されている心の動きということなのだろう。それは第一部の最後で監督がメッセージとして伝えている言葉につながるものだと私は思う。
  3. 最後に…
     実は、三つ目の話題に移ったところで時間切れとなり、話が深められなかった重要なテーマがあった。それは、「女性性と男性性」についてである。イザイホーにはノロを中心とした女性が担い、男性のソウルイガナシが支える姿が見られる。また映画には、村の辻で女性が行う行事も見られる一方、海岸で50歳から70歳の男性だけが担う祭りも記録されている。そこには、女と男という単純な区分けや役割分担では測ることのできない精神文化が見て取れ、むしろそれぞれの持つ特質を見据えているようにすら感じる。
     女性性と男性性については、私の知る限り臨床心理学者の故 河合隼雄氏の著述に詳しいのでそちらを参考にして頂きたいが、河合氏も言っているように例えば男性性は男性だけが持つ性質ということではなく女性も持ちうる。もちろん逆も然り。
     イザイホーという儀礼において、女性性と男性性とはどのようなものと捉えているのか。それはきっと現代社会の捉え方と微妙に異なるのではないか。そういう感触を持った参加者もいたのではないかと思う。そこで時間がなくなり、話し合いが途中で終わってしまったことは本当に残念だった。次回以降のシネマカフェで再びこの話題が上がってきたら(その可能性は大いにあると思う)さらに深めていきたい。

文:由井 英(映画監督)