第3回シネマカフェ 上映作品 2016.5.15

THEME
テーマ

受け継ぐものについて考える

CINEMA
映 画

久高オデッセイ 第二部 生章  [2009年完成 ] 
監督: 大重潤一郎  制作: 沖縄映像文化研究所

講師:SUGEE氏(音と植栽空間コーディネーター)
聞き手:由井 英(映画監督/ささらプロダクション)

KEY WORDS
参加者の言葉

  • 巡る、つながる、風土に根ざす生活、生きる、守る、祈る
  • 女の佇まいー晴れやか
  • 全員で祝う
  • 人が謙虚ー空、海、自然は授かりもの、その中に自分がいる
  • 循環のシンボルー竜
  • 人を超えた存在とつながりー対等な関係
  • 久高には川がないー井戸の大切さ
  • 大地は人間のものではない。天からの授かりもの。
  • 人間を超えたものとのつながりー循環
  • 泉が枯れつつある。人が耕していない。

※言葉の意図を伝えるため加筆しています。

DISCUSSION
話し合い

・岬に立ち、監督は何を見たのか?

久高オデッセイの1部と2部は全く異なるテイストを持った作品だった。映像のタッチや編集のリズム、ナレーションの言葉使いや間の取り方などなど。1部のナレーションは解説的であり、編集のリズムは規則正しく淡々と前に進んでいった。監督の柔らかい声とゆるやかな調子とが相まって、観客は話の内容を素直に理解することができた。一方、2部のナレーションは詩的であり、言葉の意味を観客に理解してもらおうという意図はないように感じた。2部から初めて見たという参加者の中には、映画が何を描こうとしているのか理解できなかったという戸惑いの声も挙げられた。編集は一部にあるような弾むリズムがなく、映像はまるで浜辺に打ち返す波のように姿を現しては消え、消えたかと思うと再び姿を現した。ナレーションはほぼ全編を女性が語り、監督は作品の頭と最後にひとこと述べるだけだった。監督のひとことはとても簡潔で、かすれた声にも関わらず力強く、不思議と記憶に残った。言葉はかなり選んで使っているようだった。作品の頭と最後にはおよそ次のようなフレーズが繰り返し使われていた。

私は見た。岬の突端に立って。命あるものの姿を、形を。命あるものの輝きを、つながりを。岬の突端に立って、私は見た。

「岬の突端に立って」という言葉が妙な響きを持って私の記憶に残った。なぜ「岬」なのだろうか。

岬でなければだめなんだよ。他のどの場所とも違う。岬は本当に特別な場所なんだよ。

私の耳元で、そう大重監督が言っているように聞こえた。監督は「岬の突端に」立ち、何を見たのか。彼にとって、なぜ岬でなければならなかったのか。久高島にとって「岬」はどのような場所なのかと。私の問いとして、講師のSUGEEさんに尋ねないわけにはいかなかった。SUGEEさんの話を聞いているうちに、確かに岬は特別な場所なのだろうという思いがした。監督にとっても、もちろん島にとっても。その理由については、参加者のディスカッションをまとめた後に書きたいと思う。まずは参加者のディスカションの内容を読んで頂きたい。今回はキーワードをもとに、ふたつの話題が上がった。キーワードから深められた参加者の話題を理解していただいた方が、岬にまつわる監督の思いをじんわりと感じることができるのでないかと思う。


1.  共有することで守れるという思想

キーワードにもあるように、参加者は島の人々と風土(島、海、大地、天など)とのつながりを印象深く感じたようだ。特に、人が土地を所有しないという感覚は、島びとに限らず、かつて我々の先人が当たり前のように持っていた感覚だが、改めて新鮮に受け止めたようだった。久高の人々にとって、大地は天からの授かりものであり、みんなのものでもなく、むしろ「誰のものでもないもの(人間のものではない)」という感覚があるのではないかということは、第一部のまとめとして書いた。今回はそこから一歩踏み込んだ話しが展開されることになった。

それは講師のSUGEEさんの問いかけから始まった。土地を人間のものとしなかった暮らし方は、結果的に、
その土地そのものや島の暮らしを守ったのではないかと。彼の話の意図を逆に捉えれば、土地を人間のもの、誰かのものとした途端に所有者が次々と入れ替わり、やがてその土地と関わりのない人が持つことで、暮らしそのものが受け継がれなくなったのではないかという意味になる。SUGEEさんの話しを受けて、参加者はそのように互いに問いかけながら話を深めていった。

臨床心理学者の河合隼雄の著作を読むと、西洋文明の特徴のひとつとして「Divide and Rule(分割して統治する)」という考え方をあげていることに気がつく。
ひとつのまとまりのある秩序を科学的に分析することでバラバラに分解して、新しいルール(価値付け)の元に、作り直すという考え方である。一方、日本では古来より相容れない様相や矛盾を、むしろ一定の枠組みの中に納めていく傾向が強いのではないか。明治の近代化を通じて積極的に西洋化したことで、我々は豊かな暮らしを手に入れることができた。しかし同時に、そうした思想にも影響されることになった。その影響は人と風土との関わり方の変化に顕著に表れていると私は思う。

西洋文明をやり玉に挙げて一方的に原因を押し付けるつもりは全くないが、我々はもう少し、明治の近代化によって取り入れた西洋文明の特徴を見極める必要があるのではないか。河合隼雄の意図もそこにあるのではないかと思う。決して西洋批判ではなく、もちろん自国自慢でもなく。福沢諭吉は、Natureを「自然」と訳したというが、風土という言葉が古来より大切に使われてきたことを考えると、近代化の過程でこぼれ落としてしまった、あるいは汲み取ることのできなった文化や文明の齟齬が相当あるのではないかとも思う。そうした齟齬をうやむやにせず、いまこそ捉え直さなければならない(翻訳し直さなければらない)、そういう時代にきていると私は考えている。ともすると我々は、海を越えて嵐のように突然現れた西洋文明との接触とそれによる近代化という荒波を上手に乗り越えてきたと自画自賛するように評価しがちだが、今やそこに留まってはいられない問題も少なからず露呈してきている。

明治に始まる近代化から戦後の土地開発を経て、我々はかつての村落社会を支えた「誰のものでもない」土地を多く失った。誰のものでもない土地は本来人間が勝手に使うことのできない土地であり、その象徴として神仏を祀り、祈りを捧げることで人は謙虚になることができ、自らの欲を戒め、世代を超えて暮らしを受け渡すことができた。欲望を刺激することによって成り立つ現代社会は、自我の暴走を諌める方法を持っていない(あるいは、持とうとしない)。そのことを考えるとき、果たしてわれわれの社会は先祖の暮らしより本当に進化、発展してきたと言えるのだろうか。自分を大切にしながらも他人とどう関係を結ぶことができるのか。自分を超えた存在や世界をどう感じることができるのか。自分の中から沸き立つ欲望をどうすれば穏やかに収めることができるのか。そこに、われわれが近代化の過程で見失ってしまった本当の課題がある。


2.  泉が涸れつつあることが象徴するもの

久高島には川がないという。それだけに久高の子どもたちが沖縄の本島を訪ね、川で泳いでいる姿はとても楽しそうに見えた。普段、泳ぐ場所は海に限られているだろうから、川と海(淡水と海水)のいろんな違いを感じたことだろう。現在、久高島では本島から海底を通して水道水が届けられているという。かつては井戸水が島の人々の命を支えてきた。映画では、井戸水が涸れてきたことに注目している。その原因として、人が土地を耕すことが少なくなったことを挙げている。泉が涸れつつあることは、島の人々にとって相当ショックなことだろうと思う。おそらく監督は泉が湧かなくなってきていることに島の暮らしの変化を微妙に感じ取ったのだろう。それは12年に1度行われるイザイホーが受け継がれなくなったことに呼応する変化と考えたのではないか。映画では人が耕すことと泉とが具体的にどう関係しているかについては詳しく触れてないが、そこから参加者は島の暮らしが人と風土の微妙な関わりの中で続いてきたことを敏感に感じ取っていた。循環やつながり、竜といったキーワードが上がったのはそうしたことの表れだろう。人は風土を根絶やしにせず、放置もせず、まるで風土の気持ちを推し量るように暮らしてきた。そこに人の知恵があった。風土も守られ、人も生きることができた。

 

ニライカナイと島の間に、岬あり

SUGEEさん曰く、岬はニライカナイに一番近い場所。その岬に監督は立ったのだろう、ということだった。私の誤解がなければ彼はそう話してくれた。ニライカナイについてはいろんな解釈ができると思うが、ここでは漠然と海の向こうに存在するあの世としておきたい。イザイホーで祖霊に対する祈りが繰り返されるように、ニライカナイは祖霊のおわす世界であり、生きとし生けるものがいずれ帰る場所でもあり、すべての命が生まれる場所とも言えるのかもしれない。とすれば、岬は海と島の接点にあり、まさにあの世とこの世の間に存在する場所となる。その岬に立って監督が見たものが、命あるものの輝きやつながり。監督はどことなく地面から少し浮いたところにポジションを取っているようでもあり、そこから人の営みを全てを包みこむような優しい眼差しを注いでいるように感じた。大重監督は、自分がすでにこの世を離れつつあることを予感していたのだろうか。

こうしてタイプの異なる一部と二部を見てくると、三部はいったいどうなるだろうかと映画の作りに注目しただけでも見たくなる。一部は結章、二部は生章、三部は風章と副題が付けられている。久高の島びとにとって、大重監督にとって「風」とはどんな存在なのだろうか。第三部は大重監督の遺作である。

文:由井 英(映画監督)

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