上の写真を見て符さんに、「なぜ、女の子はおばあちゃんに赤い頭巾を被せられているの?」と質問したら、それについて書いた記事があるからと送ってきてくれた。読んでみるとその理由を始め、符さんの出自やシンガポールという国についても日本と比べながら触れられていたのでご本人の許可を得てここに掲載させていただくことになりました。その文章の一部を二回に分けてお届けします。これを読んでいただくと12月10日にkiccaloで符さんにお話を聞く際に質問のヒントになるだろうし、深く理解する助けになると思います。

(由井 英:映画監督)


シンガポールと日本事情を見て考える 
文:シンガポール「聯合早報」東京特派員・符祝慧

私は留学のために1983年に来日し、5年間日本に住んで帰国し、シンガポール国営放送に勤めた。その後、日本の大学院での勉強と日本人との結婚のため、90年代に再来日した。子どもが2人いたが、保育園は1歳前には受け入れてくれず、少し翻訳の仕事をやりながら3年ほどはほぼ専業主婦だった。メディアの仕事を続けたいという思いがあり、1996~97年から日本社会でキャリアを持つようになった。2000年からはシンガポールの新聞社に記事を送り、ある時期はテレビ局でドキュメンタリー番組を制作し、14年間日本から発信している。

シンガポールの労働事情
シンガポールは国としては小さいが、80年代以降、国民の生活という点では、日本と肩を並べ、最近では日本を超える豊かさを持つと言われている。経済的にはアジアではかなりの優等生だ。日本の淡路島ぐらいの小さな島国の中に400~500万人の人々が住み、外国企業も多い。最近は東京以上に混雑しているという印象もある。

シンガポールはアメリカ、日本、中国のミックスのようだ。アメリカに似ているのは移民国家だということ。元々、シンガポールは現在のマレーシアの一部だった。戦後独立することになり、一つの国として生きるために、狭い土地に海外から色々な人々が移民してきた。祖父母は1930年代にシンガポールに移り、そこで私の父を生んで育てた。私はいわゆる中国系シンガポール人3世である。中国系以外にマレー系やインド系、その他の民族がいる。マレー人がもともとその地に住んでいたが、7割ぐらいは中国系の人々で、小さな中国社会として戦後成長してきた。日本に似ているところは、まず資源がないということ。資源がないために、企業、特に商社と技術の部分で頑張っている。もう一つ、最近とても日本に似てきたのは、少子高齢化である。

シンガポールで「労働」という言葉を使うときには、建築現場の労働のようなブルーカラーの労働が真っ先に思い浮かぶ。その中には労働者の権利という人権の視点を踏まえたニュアンスが含まれているようにも思う。

私が中学1年生の時に、父の書斎で偶然1冊の労働者についての小説を読んだ。その内容は、社会には労働者とオフィスの中で座っているホワイトカラーの階級があり、大学生たちは卒業しても仕事がなくて、大変悩んでいる。経済が不況の中で、自分はどうすればいいのか。仕事はないが、プライドがあるために建築現場にはいきたくない、といった内容だったと記憶している。私はこの小説を読んだ時に、仕事には差別があるということを知った。その小説を読んで影響を受けたのだが、当時シンガポールの社会では、仕事に差別あるという思想については問題があると思われていた。

私が移民国家と労働の問題に触れたいのは、労働者にはある意味で国境がなく、行ったり来たりしているという事実がある。これは歴史から見ても、シンガポールやマレーシアなどの東南アジアでは特にそうだ。中国からの移民は大昔から海外に流れている。中国の沿海地域は昔は生活が苦しかった。例えば広東省や福建省など南側の沿海地域では海外に出て行くことが多い。例えばサンフランシスコや横浜の中華街などに最初に辿り着いた人の出身地を見ると、やはり沿海地域が多い。自分の故郷で生きられない時に海外を求めるのだ。

シンガポールには赤い帽子のような少し硬めの赤いハンカチを被っている女性たちがいる。この人たちは「赤頭巾」と呼ばれている。彼女たちはシンガポールの最初の女性労働者だ。この中国広東省の三水から来た女性たちは、シンガポールでは象徴的な存在で、女性労働に目を向ける時には必ず彼女たちのことが話題になる。彼女たちは非常に勤勉で、彼女たちの一生を描いたたくさんのドキュメンタリーやドラマが放送されている。

彼女たちがなぜ1920年代にシンガポールに辿り着いたかというと、故郷で大きな水害があったからだ。三水というところは農業も資源もとても豊かなところだった。しかし水害が起きて食べていけなくなり、この地方に多い活発な気風の女性たちが海外に出た。東南アジアの多くはイギリスの植民地だったが、様々な労働現場で人手不足だったので、中国から労働者を呼んだ。彼女たちは、最初は断られたが、それでも海を渡ってシンガポールに来た。

シンガポールの統計によれば、その時代の「赤頭巾」、三水から来た女性たちの数は1万人にも達したと言われている。その中には様々な人がいた。最初に来た人々の多くは水害の被害によるものだが、その後には、例えば、夫が仕事もないのに酒を飲み、暴力を振るうので、我慢できなくて家出をした人もいた。もし自分の故郷に帰って見つかれば、また暴力を振るわれる。それが嫌で海外に出て、シンガポールに来た。シンガポールでは建築現場の仕事しかなかった。彼女たちは朝の6・7時から日が暮れるまで、建築現場で石や砂を運んで、毎日働き続けた。そのように彼女たちは生きてきた。

中には故郷の子どもや夫や両親などの家族に仕送りをしなければならない人もいた。自分の生活のためだけではなく、家族の生活も自分の肩に掛かり、彼女たちは本当に勤勉だった。もう1つの特徴としては、彼女たちが非常に節約家だということである。例えば、彼女たちはご飯を自分たちで作らず、当時の金持ちたちが捨てた残飯を、夜それぞれのグループで分けて、それを自分の食事として食べていたという話のドラマもある。

この人たちの一部はずっとシンガポールに住んでいて、最近最後の1人が亡くなった。もう100歳以上の人で、勤勉で大変な労働をしてきたが、長生きだった。また一部は中国の自分の故郷に戻って老後を過ごした。彼女たちは女性として極限まで頑張ったのだが、封建的な時代でもあり、その苦労を声に出して訴えることもなかった。

(つづく)

ー女性労働研究会編「ふつうの働き方」をあきらめない(青木書店)より


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