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ウェストンを導いた猟師たち
「ふるさと常念」は、人間編(1)の三つの物語から、自然編、そして人間編(2)へと続く。最後の人間編(2)の中で触れておきたいことがある。それは「ウェストンの常念登山記」に関わってくる文章があるからだ。
ウェストン一行は常念岳を登るために三人の熊狩りの猟師と村長の山口吉人の息子をその先達とした。人間編(2)では、彼らの子供や孫など親戚縁者に当時の様子を聞き、まとめている文章がある。さりげなくまとめているこの文章に、私の心は揺れ動いた。この冊子を作った人達の特別な思いを感じとったからである。
作者ら安曇野の人びとにとって、猟師達はウェストン一行を常念岳へ連れて行った「単なる導き手(先達)」ではなかった。常念岳登山において、あるいは日本の近代登山の幕開けとしてウェストンは輝かしい「光」かもしれないが、村の先達はそれに霞んでしまうような「陰」ではなかった。先達には顔があり、表情があり、息遣いがあり、おそらく独特の足さばきもあり、もちろん名前もあった。猟師の名は、藤原啓太、山口琢松、岩牧多聞次、そして村長の息子、山口真喜吉。
こうしたウェストンと直接関わりを持った人々への痕跡を少しでも残そうという思いは、地元の人々ならではの視点だろう。作者らが彼らの話に耳をかたむけることよって、当時の常念岳登山の様子が初めて多面的に、立体的に浮かび上がることになった。というのは、ウェストンの登山記は日記風の記録であり、当然ながら一人称で書かれ、したがってウェストンが見たものに限られる。ウェストンが明治26、7年ごろの村の暮らしや人々の様子、常念岳をどう見たのかは貴重な記録であることは間違いないが、例えば村人がウェストンをどう受け入れ、猟師が彼をどう見ていたのかも当時を物語るもうひとつの視点と言える。それがきちんと残されていることにこの冊子の面白さがある。
例えば村長の山口吉人が常念登山の計画を熱心に聞いてくれ、歓待を受けたことが「嬉しかった」とウェストンは素直に登山記に書いている。一方、迎える側の山口吉人の子供達といえば、次ような話が再録されている。
私はその時十一歳でしたが、姉や女たちは、「それ異人さんが来た」と云って会うのをいやがっていましたので、まずごあいさつをしてこいと言われまして、まっさきに行ったわけでした。ウェストンさんは三十こしてわずかだったでしょうが、顔のきつい感じでしたが、ハミルトンさんはちょっと面長な若い青年でほんとうの外国人という様子でしたね。
ウェスントン一行の突然の訪問に、動揺しながらも客人としてきちんともてなそうとする様子が伝わってくる。また、子供というのは身の回りの物事をよく見、よく聞いているなとつくづく感心した。
ふたりとも、今の登山服のようなものを着て、ウェストンさんの帽子はつばが二段についているヘルメットでした。なんでも当時の郵便屋のかぶったようなもので、つばの間に空気の通う穴がありました。ハミルトンさんは普通の黒いソフトでした。それからくつは麻ズックの白い編上げぐつのようで、ハミルトンさんのは深いゴムのくつでした。登山の日の朝、父がウェストンさんに「おくつでは危険ですからわらじに変えられたらいかがでしょうか」というと、「いやこれは普通のくつとちがって登山のくつです。一昨年の槍(槍ヶ岳)の時もこれで登りましたよ。」といわれた。ハミルトンさんはわらじにはき変えられて行かれましたが…
彼らの登山服や装備がわかるだけでなく、ウエストンとハミルトンの性格の違いも想像できる。山口琢松と岩牧多聞次は荷かつぎ、いわゆる強力として同行したようだ。
ウエストンさんと行ったことは聞いていました。二十三才のときだったそうで、どの道を登ったかというと、二の沢でしょうね。(琢松の長男 山口隆一氏の話)
おやじは体格もよく、器用でして山仕事のほかに、大工仕事もよくできたので、まあウェストンさんの案内というより荷かつぎや天幕はりとか、食事のことなんかやったんじゃないかと思います。(中略)あのころのしたくは、ふつうしりきれはんでんを着て、ゆきばかま式のズボンのようになった「ぬき又」をはいて、下はひもでしめたもんでした。今のきゃはんにあたるものは「はばき」ですが、これはだいたい自分で桜の皮やくるみの皮をむいて、細かくさいて編んだもので、あんがい強いもんで、一年ぐらいはもちましたなあ。足には甲掛けをはいたが、いたってごそまつで、その先に、かさを半開きにしたような、かさかけ(木の皮やわら)を、つまさきに履いたもんでした。(多聞次の長男 岩牧稔夫氏の話)
先達の中で中心的な存在は、年齢からしても藤原啓太(当時50才)だろう。作者の興味なのか、子供達の印象なのか山に登る支度の話は多い。
冬山に行くには、かもしかの胴着をきて、その皮の毛の方をそと側にしたくつをはいて、その上にわらじをつけたもんでした。なかなかぐあいがよくて、わたしが『あのかんかんとかたいのをどうやってはくだい』と聞くと、『湯をかけてやわらかくしてはくのさ』と返事をしたのを覚えていますよ。絶対に凍傷にかからないと言いました。(啓太の弟孫 藤原公俊氏の話)
【次回は最終回】