※ 寄稿文や冊子の画像は、国立能楽堂の許可を得て転記しています。


翁はどこへ行った

小倉 美惠子

茅葺屋根の百姓家に生まれ育った私にとって、「能狂言」は縁遠く、どこか敷居の高いものだった。しかし「翁」の面は、故郷の小さな集落の想い出とつながっている。

幼い頃、翁の面をつけた化け物に追いかけられる夢をたびたび見た。家の座敷で祖父と祖母の間に守られるようにして寝ていた私は、怖ろしくて泣きながら祖父母をゆすり起こしたことを覚えている。祖父も祖母もそれはお祭りで見た神楽の残影だと見立てていたようだ。たしかに焚き火や提灯の仄かな明かりに照らし出され、肚を揺さぶるような太鼓の響きとともに神楽殿に現れるわざおぎ(演者)は、幼な子に畏怖を抱かせるに足るものだった。

翁と性質は違うが、先ごろ、ユネスコ無形文化遺産に登録され話題となった「来訪神」は、いかにも奇怪で怖ろし気な面と装束をつけ、幼な子めがけて脅しかけるものも多い。同じ怖さでも、テレビで見る怪獣や怪物とは、違う…と感じていたのは、子供ながらに表層の刺激と深層に響くものの違いを嗅ぎ分けていたのだろう。伝統的な芸能には、目には見えない大事なものを人々の身の奥深くに植えつけ、柔らかな想像力に働きかける力が備わっているのではないか。

今思えば、なぜ怖ろしいと思ったのだろうというほど、翁の面はやさしい。そのしわ深く泰然自若とした面差しは、山に川に、あるいは海に生きたや祖父母や古老たちの姿と重なる。夜が明けきらぬうちから野良に立ち、山に入って薪を採り、川や道の普請をし、茅葺の屋根を葺き替え、家や集落の神々を祀り、芸能を捧げ…。電気も水道も自動車もなかった時代、風土に身をゆだね、土地ならではの暮らしを紡ぎ続けてきた人々。その姿を見ているだけで、じんわり目頭が熱くなるような、「ただ、そこにいてくれるだけでいい」と思えるような安らぎと、遠からず訪れるであろう別れの切なさが胸に沁みた。その身の丈の営みこそが、地域ごとに特色を持つ生活文化であり日本列島の基層文化を形作ってきた。

のちに日本各地を訪ねるようになり、日本列島の津々浦々、山々谷々の小さな集落にも様々な神事や芸能があり、その多くが三番叟という演目で始まることを知った。それは地を鎮め、清める演目であり、翁の存在が欠かせないという。翁とは、「土の精」とも、よくわからない存在であるとも聞いた。その滋味あふれる面差しは、やはり土に着いて生きた古老の行き着く境地であり尊厳の表象なのではないだろうか…。

東日本大震災も含め、毎年のように人の命に関わる大きな天災を経験するようになる中で、各地の方々から「もっともっと村の古老の話を聞いておけばよかった…。」という言葉をお寄せいただくことが多くなっている。現代人の私たちは都会に憧れながらも、地に着いて働く人々を敬う気持ちも併せ持ってきた。心ならずも農山漁村の衰退を見過ごしてきてしまったこと、それが風土の荒廃に繋がっているのではないか…という〝うしろめたさ〟を吐露できる時代になってきたとも言える。

翁とともに幾久しく生き続けてきた祭祀や地域の伝承のみならず、人の心に沁みる古老たちの姿までもが、今、日本列島から消えつつある。…それはなぜか。

大都市・東京が著しい成長を見せていた頃、ある小さな論争があったことを知った。小津安二郎の映画に欠かせない笠智衆という俳優をめぐる論争である。朴訥にして飄々とした味わいがある笠智衆は「日本のおじいちゃん」として多くの人に愛された。笠は日本人が親しみ敬ってきた土着的な翁の象徴でもあり、〝剛〟の日本人とは異なり、そこにいるだけで時の流れを緩やかにし、枯淡の味わいを醸す人だった。

ところが、エッセイストの山本夏彦は、その名も『笠智衆だいっきらい』と題するエッセイで、笠の熊本弁訛りが抜けない語りや棒読みで緩慢でヘタな演技が許せないとしている。それに対し、白洲正子は反論ともいえる『笠智衆だいすき』というエッセイを発表し、急ごしらえで味も素っ気もない標準語を美しいもの、たいそうなもののように言うことに違和感を呈し、笠の存在感そのものが持つ深みを好ましいとしている。山本は、俳優として標準語すら話せない笠智衆がもてはやされる世相を大衆迎合的であると見ていたようだが、むしろ「作られた偶像」に席巻されてしまう前の時代に、人々が「失いたくない」と願い、辛うじて持ち合わせていた良心が結んだ像ではなかったか。スマートに論理的であろうとする都市社会の中で、笠智衆に仮託された緩やかで鄙びた土着的な匂いのするものは嘲笑とともに居場所を失っていった。

近頃は、土地ならではの〝地言葉〟への関心も高まり研究も進んでいるが、上京すれば「都会的であること」が求められ、高じて全国にミニチュア東京のような街がたくさんできるようになった。特色溢れた地域の風土や文化、そして翁のいる原風景は、画一化された都市的なものの前に劣等感をまといながら言葉もなく急速に退縮していったのだった。

人生で初めて「能楽」に触れたのは、二〇〇四年。水俣の海辺に舞台を設えた創作薪能『不知火』だっだ。「能」とは、遥か昔の古典芸能で、難解で退屈なものだと思い込み、敬遠していたが、照葉樹林の濃い緑と夕刻の海が織りなす風土の記憶とともに魂を揺さぶられるような印象を受けたことは今も忘れない。それは水俣病の海毒で亡くなった全ての命の鎮魂と蘇りを願い、天草に生まれ、水俣に育った作家・石牟礼道子が魂を込めて書き上げたものだ。

「能」は、無念や言葉にできない思いを抱えて亡くなった者の思いに寄り添い、時代を超えて現世に届ける形を持っていることを知った。国立能楽堂に通うようになったのは、それからのことだ。以来、失われた我が村で言葉も持たずに消えていった翁をはじめ、小さきもの達が宿していたものを今に受け渡したいと思い、映画の製作を始めた。深遠なる「能」の世界への理解は遠く及ばないが、わずか数十年の間に失われたもの達の声なき声を現世に届け、人間中心の都市的世界観に別角度から問いを投げかける仕事をこれからも続けていきたいと思っている。

     (おぐら みえこ/文筆家・映画プロデューサー)