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岩波茂雄は「岩波書店はマルクスも出す。しかし、吉田松陰の全集も出す」と言っていますし… 日本の知的な基盤を提供するんだという姿勢は一貫しています。

 岡本 厚|岩波書店 代表取締役社長

終戦の翌年に世を去った岩波茂雄の切実な「遺言」。それが岩波書店のオピニオン誌ともいえる『世界』だったという。入社以来、『世界』の編集一筋に携わってこられたという岡本厚社長にお話しを聞いた。

SomoSomo 1【ひと】 岡本 厚

岡本社長は、創業百周年を迎えた2013年に就任されたとのことですが、岩波書店とのご縁は?

岡本:『世界』という雑誌との出会いです。早稲田の学生だった1970年代に「韓国からの通信」という連載がありました(〜1988年)。韓国の軍事政権が民主化運動を弾圧していた時に韓国で何が起こっているのかを*「T・K生」と名乗る人が毎回リポートしていて、評判になっていたのです。1973年に金大中氏が東京から拉致され、「隣の国でいったい何が起きているのか」という関心から『世界』を買うようになりました。当時早稲田の学生だったのですが、救援運動などに参加しながら毎月読んでいました。「こういう雑誌の仕事をやってみたい」と思い、試験を受けて岩波書店に入社し、配属されたのが『世界』編集部だったのです。

いきなり望みが叶ったのですね。

岡本:私はそれからずっと『世界』の編集部で、編集長も16年ほどやって、役員になってもしばらくは続けていました。いろいろな部署を一通り経験した人が社長になるのが普通なのかもしれませんが、私の場合、水が合っていたのか、他の所では役に立たんと思われていたのか(笑)、一貫して『世界』に関わってきました。ちょっと珍しいタイプなんです。

『世界』の創刊はいつ頃だったのでしょう?

岡本:1945年12月、つまり戦争が終わった直後で、岩波茂雄のいわば最後の仕事が「世界」の創刊でした。彼は戦争を止められなかったことを心底悔いていた。「我々はなぜ、こんな戦争をしてしまったのか。友人も息子たちも兵隊に取られ、皆死なせてしまった。将来ある若き学生たちも死んでいった。それをなぜ止められなかったのか」と。そして「それは、我々大人が真剣に止めようとしなかったからではないか」と。茂雄自身は戦前戦中を通して日中戦争や三国同盟に強く反対していたのですが、しかしそれでも止められなかった。そこで出版人として何ができるかと考え、「大衆に向けた雑誌を作らなければならない」と強い意志で『世界』の刊行を始めたのです。

吉野源三郎さんを最初の編集長に立て、12月8日に1946年1月号が出ました。あの焼け野原の何もない中、たった4カ月で出版に至ったのです。60数ページの薄いものとはいえ、よくまあ作ったと思います。発売日には買い求めるために岩波書店の周りを行列が取り巻いたといいます。今でいえばゲーム発売日のような感じでしょうか。茂雄は非常に情熱的な文章を創刊号に寄せています。「特攻隊の学徒が敵機敵艦に体当たりで突っ込んでいったように、我々大人もからだを張って主戦論者に対抗していたら戦争を食い止められたかもしれない。たとえそれが無理でも、ここまで酷くはならなかったのではないか」と。

 

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斎藤茂吉留学渡欧送別会  1921年(大正10年)10月
写真出典:写真でみる岩波書店80年|岩波書店より

前列左から、森田恒友、斎藤茂吉、安倍能成、今井邦子、中村憲吉、折口信夫、
中列左から、東新、小宮豊隆、平福百穂、杉村翠子、岩波茂雄(床柱の右)、岡麓、
後列左から、蕨桐軒、島木赤彦、古泉千樫

 

―岩波茂雄の最後の強い思いでしたでしょうね。

岡本:これが「戦後の岩波書店の原点」になったと思います。それほどの決意で始めた『世界』ですが、翌年の4月に茂雄は亡くなり、わずか数号しか目にすることはできなった。1946年5月号には丸山眞男の有名な論文『超国家主義の論理と心理』が掲載されるのですが、茂雄はおそらく読めなかったでしょう。けれども、そうした戦後の息吹が出始めた頃に彼は亡くなったのです。

戦時中は弾圧を加えらえたと聞きますが。

岡本:戦前に、岩波書店で発行した津田左右吉の著書が天皇の尊厳を冒涜するとして訴えられたり、マルクスの『資本論』など左翼的な本も出していたので、後に会長を務める小林勇が「横浜事件」に関連して拷問を受けた時、特高(特別高等警察)から「お前の所なんか潰してやる」と脅されたりしたようです。が同時に、出征していく学徒たちが熱烈に「岩波文庫」を求め、背嚢に岩波文庫を入れて戦地へ赴いたそうです。陸軍省も紙不足なのに岩波文庫を大量に買い上げて、将兵に慰問品として配給したということもあった。ちょっと不思議な関係ですね。

「右」とか「左」といった思想信条を超えて、書物を求める当時の若者の気持ちの中に岩波書店の特異な位置づけがあったというのは大事なエピソードですね。

岡本:岩波茂雄は「岩波書店はマルクスも出す。しかし、吉田松蔭の全集も出す」と言っていますし、玄洋社の頭山満とも親交がありました。その時々に移り変わるものではなく、「読むべき価値のあるものは出すのだ」という信念を持っていました。日本の知的な基盤を提供するんだという姿勢は一貫しています。

分野も広いですね。

岡本:漱石から始まって、芥川龍之介、中勘助といった作家の作品や哲学叢書の文科系だけでなく、数学や物理などの理工学系の本も早くから出している。これは岩波書店の伝統です。日本の社会が近代化を経て都市化が進み、人々が熱心に本を求めていた時代ですね。

中島岳志さんの『岩波茂雄 リベラルナショナリストの肖像』2013年、岩波書店 刊)の中に「煩悶青年」という言葉が出てきますが、幕末から明治初期に「近代国家建設」へ向いていた熱は、ほぼその礎石が築かれた明治の終わりころには「人生いかに生くべきか」という個人の煩悶となって青年たちに広がり、哲学が求められた。それにうまく合致していたのでしょう。「世界ではどういう小説が書かれているのか」「どのような哲学があるのか」といった知的な欲求に、書物の形で供給したのが岩波書店の成長の基盤だったと思います。

古本の正札販売など、誰もが「売れるわけながい」という商法を敢行して、岩波は成功していますね。

岡本:ビジネス感覚も少しはあったでしょうけれど、仲間の存在は大きかったでしょう。一高から東大の学友たちのサークルに当時の知的な才能が集まっていた。安倍能成や阿部次郎、漱石の『三四郎』のモデルと言われた小宮豊隆や寺田寅彦らの面々です。彼らを岩波が出版という形でネットワークとして結びつけたということでしょうね。

戦後70年から1年。今年は岩波茂雄の70回忌ですね。初代店主・岩波茂雄の思いは、どのように受け継がれているのでしょうか。

岡本:岩波茂雄が亡くなった3年後の1949年、茂雄の命日4月25日をもって株式会社になり、この日を岩波書店創立記念日として休業日にしています。この日は毎歳忌として役員と新人が毎年北鎌倉の東慶寺にある茂雄の墓にお参りをして、昼食を共にしています。新入社員にとっては、入社後すぐの行事ですから、岩波茂雄という人をかなり意識する機会になっているでしょう。  

茂雄の出身地でもある諏訪とのご縁は今もありますか。

岡本:以前は信州出身の社員が大勢いました。戦後の岩波書店の専務、のちに会長として支えた小林勇も信州伊那の人ですが、茂雄から「お前、リヤカー引けるか」と聞かれ、17歳の小林勇が「引けます」と言うと「よし、明日から来い」というような具合だったそうです。当時はリヤカーで配本していたのです。故郷から伝手(つて)を辿ってということがあったのでしょうね。

信州風樹文庫も、戦後すぐの1947年に諏訪から青年が二人やって来て「本を読みたいから下さい。」と頼んだところ、小林勇に「郷土だからといって売り物をタダでやるわけにはいかん!」と一喝されて追い返されたそうです。それでも再び熱心に思いを伝えてようやく願いが叶い、リュックに本を詰めて帰ったのが始まりと聞いています。以来、毎年岩波から刊行された書物は全て風樹文庫に寄贈しています。

実は、終戦直後にリュックを背負って諏訪から岩波書店に本の寄贈を談判しに向かった青年のお一人・平林忠章さんに、私たちはお話しを伺い、映像で記録しています。

岡本:そうですか。今もお元気でいらっしゃるのですね。当時諏訪の青年たちに対応した小林勇も興味深い人物です。

 

 

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雑誌「文学」の座談会を終えて(1935年6月)
前列左から、安倍能成、寺田寅彦、幸田露伴、和辻哲郎、
中列左から、島崎菊枝、小林勇、西尾実、
後列左から、藤森朋夫、斎藤茂吉、野上豊一郎、茅野蕭々
写真出典:写真でみる岩波書店80年|岩波書店より

 

 

現在の社員の方も信州風樹文庫のことはご存知ですか?

岡本:毎年、風樹文庫の友の会組織「ふうじゅの会」が岩波書店の社員を風樹文庫に呼んでくださり、岩波書店の仕事の話をする機会をいただいていますので、頻繁な交流があります。今では立派な建物になり、読書会や読み聞かせの活動もとても充実した図書館になっていますね。風樹文庫を見学した社員はみな「岩波の本が大切にされている」と感動し、誇らしく思っていると思います。さらに諏訪とのご縁で言えば、戦時中に東京で空襲が激しくなった時に、かなりの量の紙型(印刷の元版を作る紙の鋳型)を預けていたらしいのです。地元の皆さんが「岩波さんからの預かりものだから」と大切に手分けして保管して下さったお蔭で、戦後すぐに出版を再開できたと聞いています。

―100年を迎え、今後の岩波書店の目指すものをお聞かせ下さい。

岡本:岩波茂雄は日本が中国やアジアへ侵略することに強く反対していました。日中間の緊張が高まった1937年に中国の大学に岩波の出版物の寄贈を始めようとするのです。償いの気持ちもあったと思いますが、若い人々が互いに理解しあい、望ましい未来を拓いてくれることを強く願っていたのでしょう。結局日中戦争の勃発で茂雄の存命中には実現できませんでした。戦後、茂雄の遺志を継いで1947年にまだ国交のなかった中国への寄贈を実現しました。今でも5つの図書館に岩波書店の全出版物を寄贈し続けています。

近年、出版市場の規模は小さくなり、出版社としては難しい局面を迎えていることは間違いありません。しかし、良質の本や出版文化は求められ続けるでしょう。その時々の時流に流されず、「読むべき価値のあるものを出す」という岩波茂雄の原点をこれからも大切にしていきたいと思っています。

*「TK生」:本名は池明観(チ・ミョングァン)。1924年 朝鮮(現北朝鮮)平安北道出身。宗教政治学者。東京女子大学教授在任中に軍事政権下にある韓国の状況を「TK生」の名で雑誌『世界』に報告した。

 

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岩波茂雄 店主室で(1940年3月)
写真出典:写真でみる岩波書店80年|岩波書店より

お話:岡本 厚|岩波書店 代表取締役社長
聞きて・文:小倉 美惠子
取材・撮影協力:岩波書店

 

※この記事は、「諏訪式・・・そのDNAは今」と題し、諏訪式第二章「近代 人づくり編」の関連記事として、そもそも第二号に掲載されます。どうぞお楽しみに。

 

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