納屋工場(昭和56年撮影)|写真提供:岡谷蚕糸博物館
半農半工

セイコーエプソンや三協精機、チノンといった大企業も、その始まりは、「味噌蔵」「製糸工場」「寒天工場」といった、かつて諏訪に栄えた産業の「遺産」を土台として生まれている。これは外からやってきた企業には考えつかない発想で、ここにも「DNA」を読み取ることができないだろうか。

さらに「納屋工場」という存在に、農家出身の私は興味を持った。「納屋工場」とは、農具などをしまう納屋に旋盤などの工作機械を持ち込み、昼間は野良仕事や漁労をし、夜、夜中を通して機械工作の下請けを行ってきた「半農半工」もしくは「半漁半工」のお百姓の存在を物語る。

私は諏訪の庶民がどのように「精密機械」を扱う技術を習得したものか不思議でならない。なぜなら川崎の場合、百姓が大企業の工場と対等に渡り合うなどということはできなかった。耕すべき畑を失い、恵み多き海を埋め立てられた百姓は、補償金を元手に細々と暮らすか、工場に雇い入れられるのが精一杯だった。技術的な素養もなければ世界観も違い過ぎた。また、ベッドタウンとして爆発的に人口の増えた北部丘陵地域でも、百姓は天井知らずに値の吊り上る「土地」に依存し、先祖伝来の田畑を宅地に変え、切り売りして生き長らえてきた。私自身、土地を商品として売りさばいた経済力で何不自由なく育てられてきたが、心のどこかで「百姓は悲しい」と思ってきた。それでも首都圏の百姓は贅沢だ。工場などの働き口も少なく、地価に頼ることができない地方の百姓はさらに厳しく悲しい。これほど経済的に発展したといわれる日本でも、大多数の地域には「仕事がない」とされる。都会に人が流出し、空洞化を止める術もない。東日本大震災で大津波に襲われた地域では、その傾向がより顕著になっているとも聞く。この極めて厳しい状況下において「補助金に頼るな」「自立しろ」という方が酷な話だとも思う。

『オオカミの護符』は、本来自立を旨として生き抜いてきた「百姓」を、悲しい存在に貶(おとし)めた近代へのささやかな抵抗という気持ちが書かせたとも言えるし、「消えゆく百姓」の、顧みられることのなかった価値を見出すために歩み出した旅の記録とも言える。

ところが、諏訪の百姓は、悲しむどころか自らの才覚で近代の足場を築き、育て上げ、意気揚々と地元に生きてきた。

三協精機がオルゴールの生産で世界の八割に上るシェアを占め、創立三五周年を記念して出版した『オルゴールの詩 東洋のスイス物語』の中に書かれた言葉に、私は目を見張った。「原点は百姓です。背広を着てどんなにいい恰好をしても百姓は百姓です。それを忘れてしまったら挫折します。」創業者の山田正彦の言葉だ。

山田正彦は大正三年に生まれ、蚕糸学校を出て北澤工業(後の東洋バルヴ)に勤めた。当時、諏訪に疎開していた諏訪精工舎から北澤工業に出向していた優秀な技術者である小川憲二郎を誘い、弟の六一とともに三協精機を起こしたという。最初のうちは苦労の連続であったというが、小川の技術力に助けられ富士電機の下請けで土台を作り、さらにオルゴール生産のきっかけを得たことで世界的なシェアを誇る企業となる。山田が蚕糸学校や北澤工業で培った基礎と、外来の優秀な技術者との「合わせ技」が、功を奏したといえるのだろう。「諏訪にあるもの」と「諏訪にないもの」の融合。この時、「諏訪にあるもの」の側に重心を置くことで「主体性」が保たれた。私はそこに諏訪のDNAを感じるのだ。

【つづく…】


※ 諏訪式【近代 ものづくり編】は、そもそも「創刊号」に掲載された特集記事です。そもそも第2号は、2016年10月にようやく発行しました。2号では諏訪式【近代 人づくり編】と題し、岩波書店、筑摩書房などの出版業や諏訪にゆかりのある文人に焦点を当て、諏訪のもうひとつの顔、文化的側面を浮かび上がらせていきます。ささらプロダクションのウェブストア Tamaca にて販売中。

取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
小倉 美惠子 ささらプロダクション代表/作家
1963(昭和38)年、神奈川県川崎市宮前区土橋生まれ。アジア21世紀奨学財団、ヒューマンルネッサンス研究所勤務を経て、2006(平成18)年に(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。2011年「オオカミの護符」(新潮社)を上梓。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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