私は本をたくさん読むタイプではない。むしろ、気に入った本を時期を置いて繰り返し読むタイプである。だから本は自分で選んでいる。仕事に関する本以外、人から勧められても読もうという気にはならない。しかし稀に人の話を聞いて、「へえ〜、そんな本があるんだ」と興味をもち読むことがある。岡潔の「春宵十話」もそのように出会った本だった。だから仮にこの本を本屋や図書館で見つけても、自ら手に取ることはなかっただろう。そう思うと本との出会いも、人との出会いと同じように不思議なものである。

数学は、情緒

私が岡潔の本に興味を持ったのは、「数学は情緒と関わりを持っている」と書いていると聞いたからだ。なかなか面白いことを考える人もいるもんだと思ったのだ。しかし実際に本を読み始めると、その真意が書かれている箇所がなかなか出てこない。本のはしがきには岡潔の言葉として次のように書かれている。

「人の中心は情緒である。…(中略) 数学とはどのようなものかというと自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである」

こうした書き口から始まると、この本の命題はきっと数学が情緒の表れという岡潔の意図を明らかにしていくことにあると思うのだが、私の理解が足りないせいか、書物の命題に対し筋が通っていない印象を受ける。したがって読み進めるうちに目標を見失うため、どこかもどかしさを感じてしまう。新聞記者の口述筆記により章立てし、テーマを林立した構成にも原因があるのかもしれない。岡潔の婉曲な表現にピンとこないところもある。それでも幾つかの章の中には心に響く言葉があり、それらを取り上げながら、命題に対する岡潔の意図を私になりに探ってみたいと思う。

発見の喜び

発見の喜びとは、いわゆる、数学的課題を解き明かした時の喜びを言っている。この場合の数学的課題を解き明かすというのは、単に計算式を解くことではなく、この世の理(ことわり)や成り立ちといった「まだ明らかにされていないもの」を数式で証明していくことをいっている。岡潔は、それが証明できたときの喜びを一度でも味わうと、「数学はやめられない」と語っている。

面白いのは、どうして発見できたのかというノウハウではなく、発見したときにどういう気持ちになったのか、発見する前はどのような心持ちだったのか、感覚や感情を語っているところだ。ここに岡潔の人柄を感じると同時に、数学が情緒と関わりを持っているという彼の真意を垣間見ることができる。「数学とは何か」という哲学的命題に数学者として初めて答えたと賞賛するフランス人のアンリ・ポアンカレーにさえ、彼の著作の中に発見の経緯はこまごまと描写されていても、なぜ喜びが書かれていないのかと不思議がっているところは実に面白い。さて、それでは実際に発見に至った時の心持はどのようなものだったのだろうか。不思議なことに発見の前には、眠ってばかりいる放心状態が続いたと岡潔は言っている。

「全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態であったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。(中略)… だから、もうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層に隠れたものが徐々に成熟して表層に表れるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している」

こうした放心状態を心理学では「退行」というのだと思う。実は現在製作中の映画「ものがたりをめぐる物語」では、臨床心理学者の故 河合隼雄の著作をきっかけに長野県の諏訪湖一帯に伝えられてきた伝説を紐解いている。そのため、ものがたりの深層に日本人の心を見出していった河合隼雄の著作を多く読み、臨床心理学者の山中康裕 氏に映画の中でインタビューしている。その中で、大きな創作の前に訪れるという停滞状態「退行」のことは気になっていた。伝説や昔話にも「退行」状態を表すような場面がよく描かれているという。

創造的「退行」と放心状態

有名なのは、三日三晩釣り糸を海に垂れながら、全く魚が釣れなかった浦島太郎の逸話がある。ある時、糸を強く引くものに気づいた浦島太郎は、竿を上げてみると魚ではなく五色の亀が釣れた。美しい姫に姿を変えた亀は突然、浦島太郎に自分と一緒になってくれるよう「愛の告白」をする。余談になるが、この告白の仕方がとっても面白い。「わたしはあなたのことが好きだから一緒になってください」と言ったのではない。「わたしがあなたを好きなことははっきりしているが、あなたはどうか」と相手に迫っているのである。その迫り方には、不気味な「恐ろしさ」さえ漂う。相手の気持ちを伺っているようでいて、暗に自分が要求する答えしか許さないとった気迫すら感じる。昔のものがたりを読むと、こうしたちょっとした会話にその人物のキャラクターが絶妙に描かれていて興味深い。姫からの告白に対し、太郎は何の疑いもなく素直に受け入れ、二人は海の底の竜宮城に旅立っていく…

「退行」とは、ぶっきらぼうに言ってしまうと、意識から無意識に流れていく状態を示すのだと思う。浦島太郎の例で言えば、二人で海に潜り竜宮城に向かっている姿に象徴され、それは無意識の世界に向かっていると考えられる。そうすると、姫は人や亀に姿を変えて形あるものとして現れているが、「無意識からの働きかけ」そのものを表していると考えられる。つまり、意識の世界で思考し、考えに考えて行き詰まり、さらに考えてどうにもならなくなり、それでも考えをやめないでいると、突然、怒涛のように力強い働きかけが無意識の世界から立ち上がってくる。無意識の力は意識的な思考や論理をはるかに凌駕するほど強く、時と場合によっては危険と思えるほど恐ろしいものとして姿を表す。姫の存在や積極的な告白は、そうした無意識の力強さ、恐ろしさを表しているとも考えられる。

岡潔が体験した眠りを伴う放心状態は、例えば、意識を使い、考えを巡らすことで、疲れて眠くなったという種類のものではないと私は考える。つまり疲労を回復するための一般的な睡眠とは全く異なる。河合隼雄は著書「ユング心理学入門」で、「退行」に至る前の「完全な対立」を指摘している。この「完全な対立」なくして「退行」現象は現れない。しかも肝心なのは「完全な対立」を保持していくだけの強靭な自我にあるようだ。こう考えると、西洋文明に影響を受けた現代社会は(あるいは西洋文明も)、自我の使い方を間違えているようにも思える。

対立、保持、歓喜

対立する考えを自分の中で保持し続けることはかなり難しい。人は、適当な解釈や答えと思える解決策を見つけて、どちらかの考え方に寄り添い結論をつけたがる。苦しい対立状態をぬけて楽になりたいからである。しかし数学的課題に挑む場合、証明できなければ結論づけることはできず、自分で勝手に解釈し、それを解答とすることが許されない。課題を解くために、無数の方法論を駆使しどこかに証明できる糸口を探ろうとする。それでも解きあかせない状態は、まさに八方塞がりといえる。頭が沸騰しそうだ。それでも考えることをやめず、しかも容易に解答を与えない対立状態を保持し続けると、ある時、向こう側から「働きかけ」が現れるのである。つまり答えは自分が導き出すのではなく、向こう側からやってくる。向こう側からやってくる答えが本当の解答なのだ。そのために我々、人間にできることは対立状態を保持しながら、じっと「待つ」しかない。岡潔の眠りは、そうした対立状態の末に、「働きかけ」が始められた状態と見ることができる。

「もうやり方がなくなったからといってやめてはいけなので…」

という言葉には岡潔が、「完全なる対立」を保持することこそが「肝」であることを自覚していることが伺える。ところで、本当の解答が導き出されたときは、歓喜するほど嬉しいようだ。「アルキメデスが『わかった』と叫んで裸で風呂を飛び出して、走って帰って行った」ときの気持ちとも言い、これを味わったら、「もう数学はやめられません」とのことだ。

数学の本体は、調和の精神である。

前述のアンリ・ポアンカレーの言葉である。岡潔曰く、この言葉をもって、数学は初めて「数学とは何か」という問いに自ら答えることができたと言っている。この調和の意味するところを理解するのは真に難しい。

「調和とは真の中における調和であって、芸術のように美の中における調和ではありません。しかし同じく調和であることによって相通じる面があり、(中略)… 真の中の調和をうかがい知るにはすぐれた芸術に親しまれるのが最も良い方法だと思います」

「真の中の調和」とはいったい何のことだろうか。それは、数学的課題を解いた瞬間の状態をいっているのではないか。頭が煮えたぎるように考え尽くしても解答が見つからず、ようやく眠りをきっかけに無意識の力を借りて解き明かしたとき、例えばそれまで嵐のように波打っていた海が、突然、凪のような穏やかな海に変わる。あたりを見回すと、これまであらゆる方向から考えてきたたくさんの方法論がひとつの答えに結びつき、あたかも自分の居場所を見つけたかのようにあるべきところに収まり、整然としている。それを調和と呼んだのではないか。その状態は芸術では人の感情に関与する美しさを伴うが、数学の場合は、すべての方法論が過不足なく配置され、まさに調和を生み出している。そこではきっと音は何も聞こえず、時間の流れさえも全く感じないのだろう。その状態は私にも想像できる。というのは、映画の編集をしていると同じような体験をすることがあるからだ。

数学と映画の編集は似ている?

特にドキュメンタリー映画の場合、例えば90分ほどの映画を作るために今では何百時間も撮影をすることがよくある。膨大な素材の中からひとつの筋を見つけるためには、無限といえるほどのあらゆる選択肢が立ちはだかる。仮に同じ素材であっても、編集方針を変えれば別のテーマを持つ映画を作ることも可能だ。また同じテーマに向かっても編集者によって辿る筋道が異なることがよくある。そういった意味では、シナリオという形であらかじめ筋をつけて撮影する劇映画とは作りが全く異なる。ドキュメンタリー映画の場合、なんといっても編集が肝なのだ。したがって編集では、宿命的に、頭が沸騰するような作業が繰り返される。道筋を失い、迷い、停滞する。しかもその作業から逃れることはできない。その映画を放棄すること以外は…

繋がった映像を見ても、何かが足りないような気がする。しっくりこないのだ。しかし何が足りないのかわからない。一旦、排除した素材の中にも、気になるものがたくさん残っている。インタビューで聞いた話、記憶に残る映像、心に響く音などなど。すべての素材が編集者に話しかけてくる。「私を生かしてくれと… あなたの映画に最もふさわしいのは、私であると…」終わりのない会話が頭を駆け巡る。

どころがあるとき、ピタッと筋が見えるときがある。気になっているすべての素材がつながってしまう瞬間が訪れる。それまで筋を通すことを困難にさせていたすべての問題を、一挙にクリアする考えが浮かぶ。その瞬間を数学で言う所の「真の調和」といっているのだろう。不思議なことに私の場合もそうした瞬間が訪れるときには、ある種のパターンがある。それは水に包まれているとき。風呂、プール、シャワーを浴びているときなど。アルキメデスと同じだ。しかしこれまでのところ裸で外に飛び出したことはない。幸いなことに。あなたにとっても、もちろん私にとっても。

情緒とは?

緊張から弛緩に移ったときに向こう側から宿されるものを繰り返し体験することが、数学的な発見に寄与すると岡潔はいっている。情緒という言葉をあげているのは、そうした体験することの大切さをいっているように私には思える。そのために数学において、岡潔は答えを導き出すことではなく、むしろその答えが正しいかどうか検証することが大切だと言っている。そして学校教育に大胆なことを提案している。

例えば授業で生徒に答えを書かせるのではなく、むしろ先生が答えまで書き、生徒にはそれがなぜ正しいのか考えさせることが大切だと言っている。答えを導き出すだけの訓練は、頭を沸騰させているにすぎず、それを冷やす(正しいかどうか検証すること)ことを行わなければ、放心状態や停滞に至らず「退行」も訪れない。したがって数学的な喜びもない。本当の喜びは解答することによってもたらされるものではなく、向こう側からの力の存在を感じたときに訪れると言いたいのだろう。それは浦島太郎の物語でいうと、美しい姫と出会った瞬間とも言えるが、姫は浦島太郎を飲み込むほどの恐ろしさも湛えており、彼のように素直に従うことはこの物語の結末が示しているように、この世に人間として戻ってくることはできない。

本当の数学を勉強するためには、実は相当の心身の鍛錬と覚悟を必要とするのかもしれない。あなたにはその用意があるだろうか。私は映画の編集だけで、たくさんだ。

文:由井 英(映画監督)


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岡 潔

1901年大阪市生まれ。京都帝国大学卒業。その後フランスに留学し、生涯の研究課題となる「多変数解析函数論」に出会う。後年、その分野における難題「三代問題」に解決を与えた。’49年奈良女子大学教授に就任。’60年文化勲章受賞。’63年に毎日出版文化賞を受賞した本書「春宵十話」をはじめ、多くの随筆を著した。’78年没。 光文社文庫より


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