小口りう さん【写真提供(上・下):岡谷蚕糸博物館】

親の背中

岡谷蚕糸博物館から届いた資料のページをめくる中で、一枚の写真に魅き込まれてしまった。眺めるほどにしみじみと、心に滋養が沁みわたるような気がした。林さんから「諏訪人の心には、カイコの繭から糸をとる母親たちの姿が焼きついているのかもしれません」と聞いたとき、私の脳裏には、はっきりとその写真の光景が浮かんでいた。

岡谷市出身の考古学者で、明治大学学長を務めた戸沢充則さんも、幼い頃を振り返り「私の生家は岡谷の街の中心部にあった〝庶民〟の小さな家であった。(略)それらの小さな家の多くの台所や裏口の近くの一隅には、座繰りの「糸取り釜」と道具一式が置かれてあって、家いえの主婦である母さんたちが、家事の暇をみつけては釜の前に座り、煮た繭から器用に糸を挽き出し、足でこいで回転する糸車に、細い糸を巻き取っている姿が日常的な光景だった」と記している。

その写真は、戸沢さんが記した「母さん」そのものの姿を写し出している。糸をとる「母さん」の名は、小口りうさん。昭和二年に撮影されたりうさんの姿は、すでに古老の域に達しているが、諏訪人の心に宿る「母の姿」を心情まで鮮やかに伝えてくれる。

私の生まれるかなり以前の写真であり、初めて見る諏訪の光景であるにもかかわらず、不思議なことに遠い日の安らかな記憶とつながりあった。それは、今、世界中が表層でつながるかに見えて、個々人がバラバラに引き離されていくのとは対照的に、もっと根源的な「いのち」に響き、呼び合うもののように思われた。

「この母の姿を心に宿した人は、辛く厳しい境遇にあっても、ギリギリのところで踏ん張れる」と、私は思った。人は、いくつになっても「親に認めてほしい」という気持ちを持ち続けるものだと思うからだ。厳しい環境の下で倹(つま)しくコツコツと働き、苦労を背負ってきた親であるほど、その姿が子に与える力は大きい。

三世代が同居する農家に育った私は、不動産業に転身し経済的に豊かな暮らしを与えてくれた両親に感謝をしながらも、百姓として朝から晩まで体を痛めて、山に田畑に働き続けてきた祖父母の姿の方が、より強く自分を支えてくれていると自覚する。その祖父母が「寒いところの人には敵(かな)わない」と、しきりに口にしていたことを印象深く覚えている。

多摩丘陵は穏やかな土地柄で、地震以外に深刻な天災の心配はほとんどなく、真冬でも農作物の栽培ができるほど温暖な気候に恵まれている。多少の蓄えを持てる多摩丘陵の農家には東北や信州の若者を年季で雇っている家が多かった。男ならば田畑の力仕事、女であれば家事の手伝いや子守り、養蚕、糸取りなどの手助けをしていたと聞く。この北国の若者たちは、祭りの日などにご馳走にありついても「故郷(くに)の親兄弟に申し訳ない」と、贅沢を戒める風があったという。

さらに川崎の海辺は、かつて海苔の養殖が盛んで、海苔農家に嫁いでいた祖母の姉は、海苔商人の多くを占めていた諏訪人の精勤ぶりに感じ入っていたようだ。「寒いところの人には敵わない」という畏れにも似たつぶやきは、性根(しょうね)の据(す)わった「北国」の人々への感嘆であったかもしれない。

武居代次郎の「諏訪式」、北澤國男の「諏訪型」という独創性に富んだ発想は、自分の足場に引き寄せて考える「強い引力」が不可欠だ。引き寄せる力の強さは、「根」の深さに比例する。厳しい風土に向き合ってきた先人の姿こそ、「諏訪人」の本当の強さの秘訣なのではないだろうか。

二つと同じもののない風土に向き合うことが、個性の源泉であり、他者と深くつながる道でもあった。そして今、日本ばかりでなく、世界中で人々は都会をめざし、風土と向き合って生きる姿は見られなくなりつつある。そればかりか、職住分離の会社勤めは、子供に「親の本気」が伝わる機会を遠ざけている。それでもなお「親の背中」は、子供たちの強い支えとなり得ているのだろうか。

 

【諏訪式 近代ものづくり編 終わり】


※ 諏訪式【近代 ものづくり編】は、そもそも「創刊号」に掲載された特集記事です。そもそも第2号は、2016年10月にようやく発行しました。2号では諏訪式【近代 人づくり編】と題し、岩波書店、筑摩書房などの出版業や諏訪にゆかりのある文人に焦点を当て、諏訪のもうひとつの顔、文化的側面を浮かび上がらせています。ともに、ささらプロダクションのウェブストア Tamaca にて販売中。
取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
小倉 美惠子 ささらプロダクション代表/作家
1963(昭和38)年、神奈川県川崎市宮前区土橋生まれ。アジア21世紀奨学財団、ヒューマンルネッサンス研究所勤務を経て、2006(平成18)年に(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。2011年「オオカミの護符」(新潮社)を上梓。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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