信州上一番格
三代目武居代次郎は一八三八(天保九)年に生まれ、三〇歳の頃に明治維新を迎えている。富岡製糸場の建設を決断した澁澤栄一や伊藤博文らとほぼ同世代で、服部時計店を起こした服部金太郎より二十二歳も年上だ。三十八歳で中山社を設立した代次郎の写真が残されている。江戸時代の山村に生まれ育ったとは思えないダンディぶりだ。髪はオールバックで洋装の着くずし方まで板についている。それは、世界への玄関口として開かれた横浜と密接な関係を持った諏訪の先進性を雄弁に物語っているように見える。

三代目武居代次郎|写真提供:岡谷蚕糸博物館

話が飛んで恐縮だが、私は大学時代の四年間、横浜中華街の華僑が経営する雑貨店でアルバイトをしていた。今も横浜には生糸を求めて外国商館が建ち並んだ頃の異国情緒が漂うが、横浜に中華街ができたのも生糸の貿易がきっかけだという。日本よりも先に欧米諸国と生糸の貿易を経験していた中国商人は、漢字での筆談を通じて、日本人と欧米人の商談の仲立ちをしたという。中華街は、横浜の居留地に外国商館ができるのと並行して形成されていった。

世界中から商人が集った横浜には、当時の日本の最先端の文化が生まれ、首都・東京以上に活気に満ちた場所であったと思われる。「近代製糸業」は、単に生糸を量産すればよいというのではなく、最大の顧客である欧米消費先の求める需要を知り、また世界の金融市場に通じ、刻々に変わる相場に対応しなければならなかった。つまり「製糸業」に携わる人々は、日本が近代化を遂げていく上で欧米流の文化文明、発想法に対峙しつつ、受容する先鋒を担ったのだ。

そこで思い起こされるのは、一八八四(明治一七)年に埼玉県秩父地方で起こった「秩父困民党事件」だ。当時、西南戦争の戦費調達のために濫発された不換紙幣によって起きたインフレに対し、大蔵卿松方正義がとった施策は、物価下落(デフレスパイラル)を招いた。更なる増税によって、困窮に瀕していた農民たちの怒りは頂点に達し、政府に対する反乱軍を組織し、蜂起したとされている。秩父事件の蜂起に参画した人々の多くは、秩父をはじめ、群馬、信州東部で養蚕や製糸に関わる百姓であった。そもそも江戸時代から養蚕地帯として名を馳せてきた秩父一帯は、製糸業に転換してからも潤っていた。富岡製糸場の設立に関わった澁澤栄一や初代場長の尾高惇忠のお膝元でもあり、フランスとのつながりが強かった秩父では、フランスの資本によって学校が建てられたり、生糸取引も多かったために、一八八二年リヨン生糸取引所の生糸相場の大暴落の影響をまともに受けてしまった。養蚕農家は生糸の売り上げをあてにして借金をし、設備投資や当面の生活に充当していたので、生糸の暴落は生活の困窮に直結した。銀行や高利貸しはその窮状につけ込み、農民らは膨らみ続ける借金のカタに家や土地も手放さざるを得ない悲惨な状況に追い込まれていった。

この背景には、強大な力を持ちつつあった新政府に対抗する自由民権運動が深く関わっているというが、皮肉なことに、製糸業の稼ぎ出す利益によって軍備、財政を整え、国家権力は強大化し、その歪みが養蚕家や製糸家に手痛い形で戻ってきた。つまり、それまで風土と向き合い、地道に作物を作り、顔の見える範囲での信頼関係を基軸に生き抜いてきた百姓たちが、強力な近代国家を支える近代資本主義=市場経済の冷徹なる洗礼を受けることになったのだ。

信州大学名誉教授の嶋崎昭典氏は「製糸業は生糸販売価格の八割が原料繭代で占められる利益の薄い産業であった。そのうえ季節産物の繭を一括購入する大金の購繭資金の殆どは借入金で賄われた。一方出来た生糸の価格は支払った経費に関係なくその時々の相場で決められた。このように製糸業は「生死業」と言われるように先の見えない不安定性を含んだ産業であった。そのため多くの先輩の倒産を目にし、自らも辛酸を舐めてきた諏訪の製糸家は、犠牲を払って良い生糸を高値で買ってもらうより、屑物を少なくして確実に多目の生糸を手にする《糸歩(いとぶ)増収》の道を選んだ。」と論じている。

このように諏訪でも生糸相場の変動に痛手を被る人々が出た。市場に対応する知恵として編み出されたのが「製糸トラスト」とも言える結社だった。十数名単位ほどの小さな製糸場が結社を組み、それぞれが持ち寄る生糸の規格を揃え、組合員の工場には検査員が巡回するなどして、技術の統一を図った。そうして集まった各家の生糸を大口化して横浜に出荷し、小規模経営のリスクを軽減したのだ。

初代 片倉兼太郎|写真提供:岡谷蚕糸博物館

明治十二年に片倉兼太郎、林倉太郎、尾澤金左衛門らが十八社三百十一釜の結社・開明社を設立し、更なる品質管理に取り組み、欧米の絹業界に求められる糸を安定供給し、諏訪製糸業の基盤を築いていく。やがてそれぞれの製糸家の経営基盤が強化され、結社を組む必要がなくなると、片倉兼太郎は開明社から独立し、片倉組を立ち上げた。のちに片倉製糸紡績株式会社へと発展、世界に冠たる「シルクエンペラー」として、財閥を形成していく。

ほどなく生糸市場に常に諏訪製のものが存在するようになったことから、諏訪系の生糸は「信州上一番格」という格付けがされるようになる。これは嶋崎氏の言う効率を重視した中級品で、「普通糸」として日本の生糸格付けの基準規格とされたという。

その後、蚕種、養蚕、製糸の各工程の技術や経営の改善、機械化が進み、製糸業の黄金時代を迎えるが、昭和四年にニューヨーク株価大暴落に端を発する世界恐慌を受け、生糸相場も急落。逼迫した養蚕農家の青年達が中央政府への直訴を企て警察に検挙された「諏訪農民団事件」は、今も語り継がれている。多くの製糸場も倒産に追い込まれ、さらには戦争によってアメリカへの輸出もできなくなり、ついには化学繊維の時代が到来し、製糸業は斜陽を迎える。

【つづく…】


※ 諏訪式【近代 ものづくり編】は、そもそも「創刊号」に掲載された特集記事です。そもそも第2号は、2016年10月にようやく発行しました。2号では諏訪式【近代 人づくり編】と題し、岩波書店、筑摩書房などの出版業や諏訪にゆかりのある文人に焦点を当て、諏訪のもうひとつの顔、文化的側面を浮かび上がらせています。ともに、ささらプロダクションのウェブストア Tamaca にて販売中。
取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
小倉 美惠子 ささらプロダクション代表/作家
1963(昭和38)年、神奈川県川崎市宮前区土橋生まれ。アジア21世紀奨学財団、ヒューマンルネッサンス研究所勤務を経て、2006(平成18)年に(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。2011年「オオカミの護符」(新潮社)を上梓。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

Tamaca のおすすめ

YOU MAY ALSO LIKE