写真(上):北澤工業事務所【諏訪市博物館 提供】

父なる存在
一方、諏訪の精密機械産業に欠かせない存在として、北澤工業(後の東洋バルヴ)からの系譜を汲む企業群がある。オルゴールの三協精機、カメラのヤシカ、ポンプの荻原製作所、バルブのキッツなどの大企業をはじめ、中小企業の多くが北澤工業で働く中で技術やさまざまなノウハウを身につけて起業し、独立を果たしているという。

その背景として、戦時下に軍需工場に転換した企業が、終戦と同時に多くの解雇者を出さざるを得なかったという事情があり、北澤工業も同様だったようだが、北澤工業出身の経営者たちは、後年に至るまで北澤工業創業者を慕っていたと聞き、興味深く思った。言わば諏訪精密機械工業界の父なる存在ともいえる北澤工業とは、どのような会社なのだろう。

北澤工業の創始者・北澤國男は、一八九五(明治二八)年に生まれ、一五歳で紅花商に丁稚奉公に上がり、そこで商売を覚えたという。紅花の需要の落ち込みから、二〇歳の頃に生糸の原料である繭の仲買人として独立し、各地から品質のよい繭を買い付け、岡谷をはじめ諏訪地域の製糸場に売ることで財を築いたようだ。製糸場に出入りするようになった國男は、大量のお湯を循環させて糸をとる製糸業に欠かせないバルブの故障品の多さに着目する。丁稚奉公で培った商才が光る第一ポイントだ。

当時のバルブは外国産がほとんどで、国産のものは粗悪品が多かった。そこで國男は頻繁に発生するバルブの故障の修理を請け負うことを思い立った。一九一九(大正八)年に「北澤製作所」は、長男の國男を筆頭に、鋳物工場に勤めていた二男の友喜ら4人の兄弟で始めたという。家族経営の小さな町工場だったのだろう。

この小さな工場が大躍進を遂げていくのだが、その目配せに國男の鋭い感覚が見て取れる。バルブの修理を重ねるうちに、その破損原因が諏訪の寒冷な気候風土にあることに気づく。そこで、寒冷地にも耐えうる「諏訪型」という肉厚で頑丈なバルブを独自開発してしまう。その結果、世界的な需要を生み、北澤製作所は北澤工業となり、「東洋バルヴ」へと急成長を遂げたというのだ。

国産品の品質が粗悪であった時代に、なぜ北澤工業が世界レベルのものを作り出せたのか不思議でならないが、『諏訪マジカルヒストリーツアー』によれば、鋳物工場に勤めていた二男の友喜が鋳物、三男の元男が旋盤、四男の克男が鋳物の型づくりを担当し、製品や製品を作るための工作機械まで自社で開発してしまうという自己完結型の工場であったという。事業統括にあたった國男でさえ、時計の部品を作る工作機械(時計旋盤)を自前で作る腕を持っていたというから、非常に器用で研究熱心な兄弟であったと言えそうだ。が、それでも当初は不良品ばかりで兄弟喧嘩が絶えなかったというから少し親近感を覚えた。(ちなみに國男の長男利男は、東洋バルヴと袂(たもと)を分かち、同じバルブ製造会社のキッツを立ち上げ独立し、後に東洋バルヴを吸収合併している。)ともあれ、國男の確かな嗅覚が次なる一手を生み、技術力がそれを実現してきた。

「己の感性を信じて自らが成す」という気概は、後に國男の元から巣立って起業していった人々にも受け継がれたのではないだろうか。

【つづく…】

訂正: (2018.3.15 更新)
× 北澤國男は、一八九六(明治二九)年に生まれ、
◯  北澤國男は、一八九五(明治二八)年に生まれ、


※ 諏訪式【近代 ものづくり編】は、そもそも「創刊号」に掲載された特集記事です。そもそも第2号は、2016年10月にようやく発行しました。2号では諏訪式【近代 人づくり編】と題し、岩波書店、筑摩書房などの出版業や諏訪にゆかりのある文人に焦点を当て、諏訪のもうひとつの顔、文化的側面を浮かび上がらせています。ささらプロダクションのウェブストア Tamaca にて販売中。

取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
小倉 美惠子 ささらプロダクション代表/作家
1963(昭和38)年、神奈川県川崎市宮前区土橋生まれ。アジア21世紀奨学財団、ヒューマンルネッサンス研究所勤務を経て、2006(平成18)年に(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。2011年「オオカミの護符」(新潮社)を上梓。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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