蚕やしなひ草(上・下)【五味滋 氏 提供】

「官 営」

現在の諏訪の産業を辿ると、必ず行き当たる「製糸業」。「製糸」を語る前に白状すると、恥ずかしながら「製糸」と「紡績」の違いすら知らなかった。製糸は蚕(カイコ)を原料として生糸を、紡績は綿や羊毛などを原料として綿糸や羊毛糸を生産するものだそうだ。

幼い頃、「おカイコさま」という言葉をよく耳にした。多摩丘陵には、「桑都」と呼ばれた八王子と生糸貿易の拠点であった横浜港を結ぶ「絹の道」が通っており、養蚕に携わる農家も多かった。もちろん我が家も、母の実家もカイコを育てていた。我が家には「糸取り女」と呼ばれる人がいたと聞いている。「糸取り女」は、上州や甲州、信州など製糸が盛んな地域から来た若い女性が多かったようで、村の若い衆との恋愛話なども語り継がれている。彼女たちは「糸取り」の高い技術を身に着け、多摩丘陵あたりの豊かな農村に雇い入れられていたものと思う。「絹の道」は、八王子から甲州、信州と、彼女たちの故郷へと続いている。「糸取り」の技術は、女が身一つで異郷に暮らせるだけの力を与えてくれる財産でもあった。

製糸業といえば「富岡製糸場」を語らぬわけにはいかない。しばし諏訪から遠ざかるが、「富岡製糸場」について理解を深めておくことが、後々の諏訪での展開に生きてくる。さて、官営富岡製糸場は、製糸業の先進国であったフランスから機械、設備を導入し、産業革命の象徴ともいえる「蒸気機関」を動力とした本格的な近代工業施設だった。ここで改めて驚くのは、明治五(一八七二)年には操業していたという事実だ。明治維新からわずか五年後のことであり、前年に廃藩置県が行われたばかりで、まだ太陰暦で世の中が回っていた。さらに驚くのは、それ以前にすでに洋式機械製糸場があったことだ。廃藩置県前の明治三年に前橋藩の速水堅曹がスイス人技師ミューラーを招いて藩営前橋製糸所を開き、翌明治四年には三井と並ぶ豪商小野組が東京築地でイタリア式繰糸機を入れて製糸場を開いたというのだ!製糸業のスタートダッシュの速さに意表を突かれた。黒船来航を機に開国した日本の主力輸出品が生糸と茶葉だったことから、製糸業は外貨獲得、殖産興業の花形として最重要視された。とりわけヨーロッパ全土に蚕の病が蔓延し、壊滅的な被害が出たことによって、日本の生糸輸出のプレゼンスが高まり、生糸の生産性向上が大きな課題となった。

ところが従来型の「座繰(ざぐ)り機」を使った手引き繰糸(そうし)の生産性の低さと、粗製濫造やごまかしによる信用の低下が大きな問題となり、それらを克服することが維新前夜の急務と考えられるようになっていたようだ。明治新政府が数々の政治的課題を抱えながら逸早く富岡製糸場の建設に踏み切った背景には、更なる事情も見えてくる。

その頃明治新政府は、欧米から機械製糸による近代化を迫られおり、自力でそれができなければ、外国資本が乗り込むという要求がつきつけられていた。イギリスによるインドの植民地化は、機械製綿織物によって伝統的な綿織物業が壊滅したことが招いた貧困化に端を発している。ここで外国資本を導入することで経済的な従属関係が生じれば植民地化されかねないと懸念した明治政府は多額の資金を投入し、自力で大規模な官営製糸場を作る決断を下した。富岡製糸場は、「官営模範工場」の一つとしてフランス人技師のポール・ブリュナを指導員に招き、金属製のフランス式繰糸機(そうしき)を三〇〇釜も調達し、蒸気機関を動力とした大がかりな工場だった。製糸が盛んなイタリアやフランスでも金属製製繰糸機の最大導入数は一五〇釜であったというから、富岡製糸場がいかに大規模なものであったかがわかる。

写真提供:岡谷蚕糸博物館

製糸場の建設地の選定についてはブリュナを含む欧米人が各地を視察した上で、上州か信州が適地だとする報告をしている。

• 敷地が広く、地元の賛同が得られるところ
• 原材料の繭が供給できるところ
• 空気の乾燥したところ(繭の貯蔵)
• 水利のいいところ
• 蒸気機関の燃料として石炭が確保できるところ

最終的には、石炭(亜炭)の調達が容易な群馬県富岡の地が選ばれたそうだ。新政府が威信をかけた大々的な事業であったにもかかわらず、攘夷思想の名残りもあってか最初のうちは外国人のもとで働く工女が集まらなかったというが、生糸産業の必要性や経済性が理解されると、養蚕が盛んだった地元の群馬や近隣の福島、埼玉、信州北部をはじめ、困窮士族の養蚕振興を奨励していた滋賀県彦根や、明治維新の実力者を輩出した山口県萩、大分県中津など全国各地から、華族や士族など良家の子女が派遣されるようになった。このような人々が技術伝習を受け、各地の指導者となったことで富岡製糸場は「模範工場」の役割を十全に果たしたといえる。

しかしながら、あまりにも大がかりな設備に加えレンガや石材、ガラス、鉄など、当時の日本の民間人にはとても手の届かない高価な材質が使われ、かつ蒸気機関を動力としたために維持管理や修理に莫大な費用がかかり、収益性に乏しかった。富岡で伝習を受けて各地に機械製糸場を広めようとした人々も経済的な制約の中で規模を小さくしたり、断念せざるを得ない場合もあったという。まさに富岡製糸場は官営であればこそ実現できた施設だった。

【つづく…】


※ 諏訪式【近代 ものづくり編】は、そもそも「創刊号」に掲載された特集記事です。そもそも第2号は、2016年10月にようやく発行しました。2号では諏訪式【近代 人づくり編】と題し、岩波書店、筑摩書房などの出版業や諏訪にゆかりのある文人に焦点を当て、諏訪のもうひとつの顔、文化的側面を浮かび上がらせています。ともに、ささらプロダクションのウェブストア Tamaca にて販売中。
取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
小倉 美惠子 ささらプロダクション代表/作家
1963(昭和38)年、神奈川県川崎市宮前区土橋生まれ。アジア21世紀奨学財団、ヒューマンルネッサンス研究所勤務を経て、2006(平成18)年に(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。2011年「オオカミの護符」(新潮社)を上梓。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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