SomoSomo.【旅立ち】は、まさに旅に出かけるシリーズです。9月に信州の野尻湖、戸隠、安曇野をめぐってきました。その旅の様子を3回の連載コラムにしてお届けします。今回はその第一弾、野尻湖。野尻湖を訪れた目的はひとつ、琵琶島に行きたかったのです。実はここには、三人の若者がそれぞれの理由から世俗を断ち、お籠りをした島として知られています。三人とは岩波茂雄、安倍能成、中勘助。彼らは旧制一高時代の親友です。

岩波茂雄は言わずと知れた岩波書店の創業者。安倍能成は文部大臣などの国の要職に就き、学習院の院長も務めています。中勘助は琵琶島で籠った際に構想を得て「銀の匙」という本を書き、夏目漱石に絶賛されたといいます。若者たちはなぜこの島に籠ったのでしょうか。

お籠り島

野尻湖に着くと、思いのほか天気はよかった。琵琶島に向かう船が出発するまで少し時間があったので、対岸から島の写真を何枚か撮影。安倍能成の著書「岩波茂雄伝」によれば、岩波茂雄は島から対岸まで泳ぎながら渡ったという。島と野尻湖の湖岸との距離感を肌で掴みたかった。

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船の先に、こんもり丸く木々を繁らせているのが琵琶島

湖岸の村からたびたび食料を運んでもらったというが、確かに神社の鳥居が目視できるほどの距離に島はあった。そういう意味では、お籠りをするには良い島と言える。島にいる限り独りになれるし、一方で食料を調達したり、用事があるときは湖岸の村まで泳げない距離ではない。もちろん相当の体力が必要なことはいうまでもない。岩波は我流であるものの泳ぎはかなり達者であったようだ。

夜月明に乗じて、泳いで向こう岸の小舟に乗り、湖中を泳ぎ回って、又それを向岸に繋ぎ、泳いで帰ってきたり…食料の芋を頭にのせて帰ったりしたこともある。

安倍能成 著作「岩波茂雄伝」より

村の人からすると、月明かりのもと芋を頭に乗せて泳ぎながら島に帰る岩波の姿は野獣にも見えたことだろう。ところでこの島で過ごした一時は岩波にとって決して快いものではなかった。むしろ「多涙多情多恨の期間」であったと安倍は書いている。

一高を落第、そして失恋

悪いことはどうして追い打ちをかけるように容赦なく重なるものなのだろうか。岩波は一高を二度も落第し、同じ時期に失恋をする。人に顔を合わせるのを嫌い、ただひたすら自然に包まれたいと思い、俗世から逃げるような気持ちでこの地を訪ねたことだろう。それは明治36年の夏のことだった。それから嵐の中、茂雄の母が突然姿を現わすまで島での籠りは続いた。母は家の跡取り息子の茂雄を東京での修学のため諏訪から送り出した。親戚や村人たちの猛反対の中、人目を忍んで未明に出立するよう機転を利かせた母のおかげで茂雄は上京の夢がかなった。その母が生きる気力を全く失った息子を目の当たりにした時の心境はどのようなものだっただろうか。やがて茂雄は母の気持ちを汲み取り、島を離れる決意をする。この時の母の存在がなければ、岩波書店が生まれることはなかったのかもしれない。

野尻湖を周遊する船に乗った。船が緩やかに出発し岸を離れると、背後には妙高山、黒姫山などの山々がよく見えた。私は黒姫山と聞いて、なんとなく夕日に映えるしなやかな山を想像したのだが、実際こうして見るとゴツゴツとした山肌を持っているし、どっしりとした腰つきにも驚いた。黒姫山はかなり雄大な山だった。岩波茂雄は島から、あるいは野尻湖の湖岸からこれらの周縁の山々を幾度となく眺め、慰められたことだろう。

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黒姫山

彼は何の為にこの島に来たかと自問して、一言にしていはば「我」を知らんが為といひ、また慰めを得んが為だ、自由に人目を離れ泣かん為だともいって居る。実際彼はこの島に居て昼夜よく泣いたらしい。

同著作より

そう岩波のことを書いている安倍能成もまたこの島に籠っている。明治38年の8月のおよそ1ケ月間。前年の7月の学年試験に失敗して一年落第し、失恋もしていた。岩波と同じように。しかし彼の自伝によれば琵琶島に籠ったのは「唯行きたいのだから行くという外はない」と言っているだけでそれ以上詳しくは触れていない。岩波のように恋に破れた心を埋め合わせるために籠ったとは書いてない。ただし同級生からは「三年なかず飛ばずの能成の頬こけにけり」と俳句のようなものを作られ、からかわれたという。本人も当時の状態は「かくの如きものだった」と概ね認めていることからすると、かなり思い詰めるものがあったのだろう。

岩波も安倍も容易に拭い去ることのできない物事に悩み、さぞ憔悴しきったことだろう。もう一人の親友、中勘助はどうだったのだろうか。

彼の短編小説「島守」はこの琵琶島に籠ったときに書いた日記がもとになっているという。この小説を読むと中勘助が島でどのように過ごしていたのか、想像することができる。しかし主人公の男がなぜこの島に籠ったのか。どんな悩みがあるのかなどはほとんど書かれていないと言っていい。そういう意味では自分の悩みを自然を借りて吐露するような小説ではなく、したがって重苦しく読みにくい物語ではない。むしろ、この小説のテイストはどことなく軽やかで非常に読みやすい。

もちろん冒頭に描かれている妹の病気のことは彼の悲しみの一つになっている。しかしこの小説の主題は悩みを基にした籠りではなく、「島守」というタイトルに表れているように島で過ごした一時、そのものについて書くとこにあるのだと思う。つまりこの小説の主人公は島には籠りに来たのではなく、むしろ島のエネルギーをもらいにきているようにも思える。

こういう言い方もできるかもしれない。琵琶島は歩き続けてしまう自分を引き留めてくれる島。

人生は時に歩き続けることより、立ち止まることの方が難しい。それは再び動き出すことの苦しさを知っているからだ。それゆえ私たちは立ち止まることを恐れ、歩き続けてしまうのではなかろうか。そんな時、琵琶島で過ごす一時がとても貴重なものに思えてくる。島があなたを引き留めてくれるのだ。

しかしこれは小説に書かれたことから感じることであり、実際は中勘助も相当の悩みを抱えながら(岩波茂雄のように涙しながら)この島に籠もったのではないかと想像する。特に病気を抱えた兄との確執は彼をかなり苦しめただろう。その辺りのことは「島守」所収の短編集「犬」(岩波文庫)の解説にも少し書かれている。

船はゆっくり野尻湖を周回した後、琵琶島に船体を着けた。停泊時間は15分。途中写真を撮りながら宇賀神社の社殿まで一気に駆け上がった。

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宇賀神社に続く参道

宇賀神社には岩波茂雄、安倍能成、中勘助の名前を刻んだ石碑がある。それを何とか写真に収めたかった。場所はおよそ分かっていた。社殿前の階段に駆け寄った。石碑はすぐに見つかった。階段の左脇、ちょうど手水の後ろ辺りにあった。

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左から中勘助、安倍能成、岩波茂雄とある。

こうして三人の名前が並んでいると何か感慨深いものを感じる。若かりし頃の三人にとって島で過ごした時間は、その後の劇的な人生からするとたったひとコマに過ぎなかったのかもしれない。しかし決して忘れることのできないひとコマとなっただろう。それは三人の名前が刻まれた石碑が証明している。近年パワースポットという言葉も流行り、この島を訪れる人も多いというが、岩波たちの石碑に目を向ける人はいなかった。そこに一抹の寂しさのようなものも感じた。

もしあなたが野尻湖や琵琶島に行ってみたいと思ったなら、中勘助の「島守」を読むことをお勧めする。余力があれば安倍能成が書いた「岩波茂雄伝」も読むといいだろう。親友とはいえ、ここまで人ひとりについての伝記を書き上げるのは並大抵の労力ではなく、そこに安倍能成の優しい人柄を感じることができる。それは彼の文体にも滲み出ている。きっと、野尻湖の見方も琵琶島への足の踏み入れ方も変わってくるだろう。

さて、野尻湖を午前中に離れ、次の目的地、戸隠神社に向かった。その様子は次回に続く…

文:由井 英(映画監督)

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