私は早速、「ふるさと常念」を発行した出版社に連絡を入れてみた。電話口で在庫も確認ができた。私はその出版社を訪ねることにした。出版社はホテルから近いところにあるようだ。街中を少し外れた中学校のそばだった。車で行けば、20分ぐらいで到着するだろう。ホテルのフロントに彼女の姿はなかった。
幸いにも出版社はすぐに見つかった。出版社の建物は私が想像していたものとはまったく異なっていた。私は、古びた木造の、トタンで作られた丸い樋(ところどころ塗装が剥げている)がついた存在感の薄い建物を想像していた。しかし、実際は明るい白壁の、大きなガラス窓が貼られた近代的な建物だった。建物自体は決して大きくないが、都心の郊外にある瀟洒な一軒家といった風情があった。入り口の小さな看板がなければ、そこが印刷所であることは誰にもわからないだろう。それくらいサッパリとした建物でもあった。入り口の扉を開くと、横に伸びた白いカウンターが目についた。その上に真新しい「ふるさと常念」が一冊置いてあった。すでに用意していてくれたのだ。奥の部屋からは印刷機が盛んに音と立てているのが聞こえきた。
しばらくして、その奥の部屋から女性が出てきた。彼女は淡い赤色のフレームがついた丸い眼鏡をかけていた。おそらく50才前後だろう。私は簡単な挨拶をして、冊子の代金を払った。私はこの冊子ができるまでの経緯を詳しく知りたいと思ってはいたが、そのきっかけをつかめないまま聞けないでいた。印刷機の慌ただしい音が、印刷業という仕事の大変さと忙しさを物語っているように聞こえ、何か余計なことを話しかけてはいけないのではないかと私を躊躇わせた。仕方なく帰ろうとしたとき、彼女の方から話しかけてきてくれた。
「ところで、この冊子をどこで見つけたのですか」
私はホテルの名前を言い、そのラウンジにある本棚で見つけたのだといった。彼女は不思議がっていた。話によると、今ではなかなか手に入らない冊子らしい。私が泊まっているホテルに置いてあったことも不思議だと言った。「山登りの人があまり泊まらないホテルだから」
「この冊子を書いた人はどんな方なのでしょうか」と私は心の内にしまってあった言葉を口にした。
「それはご本人に会って確かめたらどうでしょうか。会長さんのお名前が確か冊子の後ろの方に載っていたと思います」
私は冊子を取り出し、カウンターの上に広げた。
彼女は私から冊子を受け取り、一番後ろのページを開くと会長さんの名前をすぐに見つけ、指をさした。「とっても気さくな方ですよ。あなたが熱心にこの本に興味を持っていることを知ったら、会長さんはいろんな話をしてくれると思います」
「どうやってご連絡したらよろしいでしょうか」
「私が連絡してお話しします」
私は、少し考えてから、またの機会にしますといい、優しい心遣いに礼を言った。玄関の方を振り返り、ドアノブに手をかけて外に出ようとしたら、再び声をかけられた。
「ちょっと待ってください」彼女はそういうと印刷機のある奥の部屋に姿を消した。しばらくして姿を表すと「これを持っていってください」と私の目の前に差し出した。
メモ用紙として使う四角い付箋だった。ピンクや黄色といったカラフルな色が束のように重ねられた付箋だった。「仕事柄、こういうのいっぱいあるんです。どうぞ使ってください」
私は安曇野という土地に受け入れられたような気がした。付箋をもらったぐらいでそのように思うのはおかしいとあなたは思うかもしれない。確かに。しかし、私がこの土地に受け入れられたと思う理由がもう一つあった。それは翌日。ホテルを後にするチェックアウトの時だった。フロントには彼女がいた。
私は部屋のキーを渡し、心地よく過ごすことができたと礼を言った。彼女はキーを受け取り、「その代わりに」というように私に封筒を差し出した。ホテルのロゴと名前が小さく印刷された白い封筒だった。
「どうぞ」と彼女は小さな声で言った。
封筒を開けてみると、ふるさと常念が入っていた。私は彼女の真意を確かめるために彼女の顔を見た。
「売り物ではありませんから、差し上げます」と彼女は言って控えめに笑顔を浮かべた。
「本当に?」と私は確かめた。
「ええ、上司もそのようにと」
「ありがとう」
「常念岳は今日も見えそうもありませんね」
「残念ながら、今日も雨だね」
「また来てください。安曇野へ」
すでに印刷所でこの冊子を手に入れていたことは言わないでおくことにした。私がこうして書き物をしている机には、今もカラフルな四角い付箋と二冊の「ふるさと常念」がある。
【終わり】