ふるさと常念は、とても読みやすい冊子だった。100ページ余を一気に読むことができた。地域の記録に重きを置いた郷土史とは異なり、安曇野や信州に全くゆかりのない、いわば外からの旅人にも配慮して作られた本という気がした。常念岳というたったひとつの山に関する冊子というのも珍しいと思った。やはり常念岳は安曇野の人にとって特別な山なのだろう。しかし私が面白く読んだのは、個人的な理由によるものが大きい。それを文字で伝えるのは難しいが、あえて書くと次のようなことになる。

ふるさと常念からは、明治の近代化(西洋化)によって、日本人の意識がどのように変化をしてきたのか、その過程を読み取ることができる。

私は近代化を迎えて以降の日本人(つまり、今の我々だ)とそれ以前の日本人を同じ尺度で測ることはできないと思っている。顔つきや身のこなしだけでなく、人間性も。その違いが最も顕著に現れるのが風土に対する感覚だろう。

かつて手を合わせて祈る対象であった山に、なぜ登るようになったのか。

その問いに答えられる人がどのくらいいるだろうか。実は「ふるさと常念」は、まさにその問いに答えるものにもなっている。つまり近代化以降、我々はいかに西洋の文明や文化に影響を受けてきたのか、その過程を常念岳という山を通して知ることができるというわけである。

もちろんそれは私の個人的な深読みであり、冊子の作者や編纂者が意図したものではないだろう。あくまでも私が勝手に受け止めた内容だ。しかしそうした観点から読んでみると、この冊子の構成は恐ろしいぐらいしっくりくる。私が読みやすい本と思ったのは、実はこの構成によるところが大きい。

ふるさと常念の構成は大きく三つに章立てされている。人間編(1)、自然編、人間編(2)。人間編(1)は、常念岳に纏わる伝説、ウェストンの登山記(翻訳物)、常念校長とあだ名をつけられるほど常念岳を愛した実在の人物、佐藤嘉市についての伝記風の文章などがある。自然編は常念岳の地質や動植物の生態系、気象学といった自然科学的な考察をまとめた文章。人間編(2)は、山登りが一般的に親しまれるようになった現在までの歩みが書かれている。どのように常念岳の登山道が整備され、山小屋が作られたのかなどが詳しく書かれている。

文章の内容をおよそ時代別に区分すると、自然編を挟んで、人間編(1)は近代以前(江戸時代以前)から明治を経て大正までとなり、人間編(2)はそれから昭和の50年代までとなる。

明治の近代化による日本人の意識の変遷は、これまで様々な日本人論、日本文化論などでたくさん論じられてきたが、山をテーマとして考えたときが一番しっくりくるのではないかと思う。それほど私たちにとって山登りが一般的になったからだ。

しかしそれ以前には「山に登らない文化」があった。

猟師や杣人、信仰者などの特別な人々を除き、我々の文化は山がそこにあっても登ろうとしなかった。特別な人々さえ登る時期をわきまえ、山に対して特別な敬意を抱き、人間が好き勝手に山を登ることを戒めてきた。すると、我々はなぜ山を登るようになったのかという疑問が湧いてくる。

私がそのことに興味を持ったのがある意味当然のような気がする。なぜならばいま制作している映画「ものがたりをめぐる物語」は諏訪に纏わる伝説を紐解きながら、まさに山に対する意識の変化を通して、日本人がいかに変わったのかを描こうとしているからだ。

私たちはいかに西洋化してきたのかということをもうすこし丹念に見ていく必要があるのではないか。守るところは守り、変えるところは変えるために。あるいは、自分の中にしっかり芯を築いた上で、世界に出るために。やみくもに大海に出ても嵐に巻き込まれて自分を見失うだけではないだろうか。

本との出会いも人と同じように不思議なものである。雨が降らなければ「ふるさと常念」との出会うことはなかっただろう。しかも臼井吉見という名前を目にしなかったら、冊子はパラパラとめくるだけでもういちど本棚の中に戻されたかもしれない。そう考えると臼井が私を安曇野に引きつけたのだろうかとも思う。映画のテーマと深く関わる「ふるさと常念」という冊子と出会わせるために。雨も臼井が降らせたのだろうか…

【つづく…】


次回は具体的に本の内容についてご紹介したい。まずは人間編(1)の最初に登場する「常念坊物語」という伝説。これがとても面白い。常念坊というお坊さんが山から下りてきて村人をからかう話。常念坊は人ではありません。いったいその正体は? なぜ山から下りてくるのか。人をからかうのも悪意がなく(どうやら理由があるようだ)、読んでいてニコッと笑ってしまう。しかも常念坊物語には日本人が山に手を合わせて祈っていたころの意識(山に登らない文化)がそこはかとなく描かれている。

取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
由井 英 映画監督/ささらプロダクション

2006(平成18)年に、小倉美惠子とともに(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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