さて今回は常念坊物語について私が面白いと思った点を三つ挙げて、いろいろ想像を膨らませてみます。かなり妄想に近いものになるかもしれませんが、楽しんでもらえれば嬉しいです。

  1. 坂上田村麻呂と八面大王の戦いが象徴するもの
  2. 鬼が人をからかった理由
  3. 徳利が象徴するもの、山とはどういう場所か。

1. 坂上田村麻呂と八面大王の戦いが象徴するもの

常念坊物語は、冒頭で八面大王が坂上田村麻呂に討ち取られたという話から始まります。坂上田村麿といえば、蝦夷のアテルイとの戦いが思い浮かびます。大和朝廷の征夷大将軍としてアテルイとの戦い勝利した坂上田村麿は東北全土を制圧します。これを外来の征服者と土着の豪族との戦いと見るならば、八面大王との戦いにも同じ性質をみることができます。八面大王は安曇野一帯を古くから治めていた一族の象徴と考えられそうです。その八面大王の一番の子分が常念坊という鬼であることが読み手(聴き手)に知らされます。ということは常念坊も土着の勢力側に属していることになります。結果的に鬼は土着の勢力を象徴していると考えられます。

ところで村人は土着の側ではなく、外来の征服者の側の視点に立って語っているところは注目すべき点です。八面大王は坂上田村麿によって「討ち取られた」と彼らは言います。源頼光が酒呑童子を退治した話のように歴史は制圧者の側から語られます。退治された鬼が戦いに敗れた土着の豪族を象徴していることも昔の物語によく描かれるパターンです。

そうした物語は戦いに負けた側からではなく、勝った側から語ります。常念坊物語も村の守り神を象徴しているはずの八面大王が「討ち取られ」と、まるで退治されたと言わんばかりに村人が語ります。しかしなぜ村人が外来の征服者の側から語るのでしょうか。とっても不思議です。

この村人の視点を物語の文脈を元にかなり妄想を膨らませて考えると、常念坊という鬼が里に下りてくる理由も想像できます。物語の主人公が語る心情は、当然この物語が伝えているテーマとも深く関わってきます。つまり常念坊の心情を深く汲み取ることによって、この物語の真意も理解できそうです。

2. 鬼が人をからかった理由

 鬼が人を揶揄う、その方法が面白いですね。五合徳利を差し出し、五升入れろと。ところが酒屋の主人の困惑をよそに、酒は五升入ってしまいます。こうした酒屋の主人と常念坊(鬼)とのやりとりは、思わず笑みが浮ぶほど微笑ましく描かれています。鬼は悪巧みをして人を騙すというような狡猾な態度ではなく、どこかチャーミングでさえあります。読み手(聴き手)の心に不快な印象を残しません。常念坊はいかにボサボサの髪で、ボロボロの袈裟を着て、ぎょろっとした目をしようとも憎めない存在です。それは物語の視点がそういう扱いをしているからでしょう。まるで「鬼の行動に悪意はないのですよ。他に意味があるのですよ。それに気づいてくださいね」と物語が語っているようです。さてそれでは、なぜ鬼は人をからかっているのでしょうか。

常念坊の行動は、まるで母親の注意を引くためにいたずらをする子供のように私には思えます。子供の目的はいたずらをする(悪さをする)こと自体にはありません。むしろ母親の注意を引きたいのです。とすれば、常念坊はなぜ村人の注意を引きたがっているのか、ということになります。それは子供と同じように自分のことを認めて欲しい、忘れて欲しくないと思っているからではないでしょうか。ここで前述の坂上田村麿と八面大王との戦いが思い浮かびます。坂上田村麿に敗れた八面大王と常念坊(鬼)は村人から見れば、いまや忘れ去られてしまう存在です。 八面大王亡き後、常念坊は自分たちの存在を村人に忘れて欲しくないと思って姿を現しているのではないでしょうか。

3. 徳利が象徴するもの、山とはどういう場所か

常念坊が持っている徳利が人間が思うよりもはるかに深いものであることは興味深いことです。これは土着の深さであり、山の深さを象徴しているように私には思えます。常念坊はそのことを村人に伝えたいと思って姿を現しているのではないでしょうか。そこに土着の文化の復権を願う常念坊の気持ちが反映されているというと、言いすぎでしょうか。仮にそう考えると、何度も何度も徳利の深さを村人に示す常念坊の姿からは哀しみすら感じられます。涙を流すような悲しさではなく、目をそらせることができない深い哀しみが常念坊には漂っています。そしてこの徳利がかつての(近代化以前の)日本人の山に対する世界観を体現しているように思えるのです。

山は日常と懸け離れた「異界」という感覚がかつての私たちの先祖にあったのではないでしょうか。それでいて異界は里から見える近いところにあり、決して届かない世界ではない。むしろそこは、この世を去った後に行く(あるいは生まれる前の)世界という考えがあったのかもしれません。山は命の生まれるところであり、帰るところであると。

そうした深い世界観を持った山に対し、我々の文化はそっと手を合わせて祈り、感謝してきたのではないでしょうか。特別な場合を除き、「人間の姿」では山に足を踏み入れてはいけないという戒めも、そこから生まれたのかもしれません。だから我々の先祖は山がそこにあっても、登ろうとしなかったのでしょう。逆に言えば、その山を踏破した、登頂した(ピークハントした)のが外来の征服者、坂上田村麿に象徴的に描かれていると言えます。物理的にも精神的にも土地を支配するために山を抑えることが必要だったのでしょう。

まゆみ岳を村人が常念岳と呼ぶようになると、常念坊は姿を現さなくなります。戦いには敗れましたが、自分の存在をある一定の範囲で村人が認めてくれたと常念坊が受け止めたとすれば、納得できる行動です。きっと常念坊は安心したのでしょう。こうして考えると出来過ぎるぐらい出来ている物語だと思いませんか。

この物語には続きがあると前回のコラムで言いました。終盤に次のような文章があります。

今でも雪融けの四月になると、常念岳東側の稜線に黒い山肌の雪形があらわれます。徳利を持ち、黒い法衣を着て歩いている姿がはっきりをと見られます。堀金、豊科、穂高の人たちは、常念坊があらわれたといって、なつかしがるのです。

この物語が常念岳に見られる「雪形」をモチーフに土地の人々が作ったとしたら、素敵な想像力だと思いませんか。しかも物語の根底には「忘れてはならない」地域の歴史がしっかり意識され、描かれています。そこに物語の持つ本当の役割を見ることができます。

人生には時としてこの世の価値観で割り切れないことが起こります。普段は白黒と判断をつけて納得できる理由を見つけることで克服できても、ある時どうしても受け入れられない物事に遭遇することがよくあります。しかし、割り切れない気持ちを抱えながら生きていくことはかなりしんどいことです。そんな時に人は物語を描いて気持ちを晴らしてきたのではないでしょうか。この世の論理では割り切れない物事を物語ることで…

敗者の歴史は決して表立って物語に描かれませんが、勝者の栄光の陰にそこはかとなく描かれます。そうした影の存在をきちんと認め、物語の中にきちんと位置づけて描くことに日本の物語の特徴があるように思えます。敗者や影を決してないがしろにはしないのです。そしてかつて我々の先祖はそうした重層的な物語を「表の物語」だけ読むのではなく、むしろ「裏の物語」も文脈から汲み取り、そこに自らの生き方を重ね、悲しみ、楽しむことができました。

現代に生きる私たちはそうした「裏の物語」を汲み取る力が衰えているような気がします。みんなが舞台の表に立ち、ヒーローやヒロインになることを憧れる世の中に生きている私たちにとって、敗者の気持ちを汲み取ることはかなり難しいことなのかもしれません。夢や希望を抱き、目標に向かって進んで行くことは素晴らしいことですが、そこから見える世界観は人生と照らし合わせた時にむしろ窮屈なものに思えることがあります。「裏の物語」が読み込めてこそ、人生の深みと醍醐味が味わえるのではないでしょうか。

また物語を分析、分類して頭で解釈するのではなく、自分も物語の世界に入り込み、物語の視点に寄り添ってその気持ちを汲み取りたいものです。物語の目的は人の意識や心を型にはめたり、狭めるのではなく、あれやこれやといろんな考えを巡らして楽しみ、想像力を豊かにすることにあるのではないでしょうか。

【つづく…】

さて次回は、「ふるさと常念」人間編(1)の第二章、ウエストンの常念登山記(翻訳)です。明治の中頃、ウェストンが常念岳を登ったときの日記風の記録です。淡々を事実が書かれていますが、「常念坊物語」の続きとしてその文脈で読むと、「山を登る文化」と「山を登らない文化」の異なる世界観がここでも感じられ面白いです。やがて我々が山を登る文化(西洋文化)を受け入れていく、その様子が想像できます。お楽しみに。


 

小倉の明治生まれの祖父が使っていた一升徳利。常念坊が持っていたのは五合徳利ですから、半分の量ですね。坂戸屋は酒屋の名前です。今でも川崎市の溝ノ口にお店があります。小倉のおじいさんは野良仕事を終えると、喜んで坂戸屋にお酒を買いに行ったそうです。帰りに、ちょっと一杯と言って飲みながら帰るのはいつものことで家に着く頃には半分も無くなり、おばあさんに怒られていたというのが小倉のこの徳利に纏わる祖父の思い出です。ここだけの話ですが… 

取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
由井 英 映画監督/ささらプロダクション

2006(平成18)年に、小倉美惠子とともに(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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