4月の常念岳(写真上)|松本市

ウェストンの常念登山記

ウェストンが常念岳を登ったのは、この登山記によると1893年(明治26年)以降ということになる。明治26年に悪天候や諸事情のために登れず、「今私たちの一行は熱心にこの山をめざして進んでいった」と書かれている。ウェストンが「今」といったのは、翌年の明治27年とされる。

「ふるさと常念」の中で紹介されている登山記は、翻訳であり、文章もほんの一部だろう。この文章を持って当時の様子やウェストンの人柄などを語るのは、いささか無理があると思うが、それでも当時、どのように山を登って行ったのかを伺うことはできる。また、冊子の中でこの登山記の前に紹介されていた「常念坊物語」という伝説からの流れで読むと、この登山記に書かれている内容が貴重なものに思えてくる。何度も繰り返すようだが、「山を登る文化」と「山を登らない文化」の接触を垣間見ることができるからだ。

まず読んでみて最初に思ったのは、この本は目で見て、歩いて、登ったことを素直に書いていること。それに対し自分が何を思ったのかという気持ちはあまり書かれていない。心の内があまり書かれていないのにもかからず、彼の文章を読んでいると温もりのようなものを感じるのは不思議だ。ウェストンは日本の自然や人々の姿や暮らしぶりを顕微鏡で冷ややかに観察しているのでもなく、双眼鏡から遠目に奇妙な目で覗いているわけでもない。見ている対象との距離感は近すぎず、遠すぎない。つまり人間の感覚に収まっているために安心して読むことができる。温もりを感じるのは訳者の日本語の言葉遣いにもあるかもしれないが、やはり文体からみじみ出てくる彼の眼差しによるものだろう。

ところが、そうしたの中に時折どきっとするような文章が書かれているのに気づく。包み込みような優しさとは懸け離れた文章が、まるで雲間から突然差し込んできた鋭い光のように飛び込んでくる。その落差に私は戸惑ってしまった。さらに私を困惑させたのは温もりのある文章よりも、どきっとするような文章の方が心に残っているからだ。とても気になる文章なのだ。

登山記を読むと、常念岳の麓の村に着いて最初に村長を探していたことがわかる。当時旅人が泊まれる宿屋もなかったようで、里に拠点となる宿舎が必要だったのだろう。村長の山口吉人は突然現れた外国人の登山客一行を暖かく迎えたようだ。一行は山口に登山計画を率直に話した。

「(山口は)私達の計画に耳を傾け、それについて熱心に意見を述べてくれた時程嬉しい思いをしたことはなかった… (中略)その夜、高い木々の間を渡るそよ風のささやきを聞いたり、夜鷹が物凄い声で啼いているのが彼方の森に反響(こだま)しているのに耳を傾けたりして、蒲団の上に横たわった時、私達はほんとうに「ゆっくりした」気持ちになった。」 

今となっては知ることができないが、この時の山口の心境はどのようなものだったのだろうか。常念岳を登りたいといって現れた外国人をどのように受け止めたのだろうか。なぜ山を登るのかとは問わなかったのだろうか。問うたか問わなかったかは別として、山口が登山客一行を歓待したのは間違いないようだ。山口は彼らのために、熊狩りの猟師を三人雇い、息子まで案内役としてつけた。翌日、夜明けとともに、ウェストンらは頼もしい山の先達を得て常念岳登山に出発する。

「広々とした原の上を五哩かそれ以上を真西に向かって素晴らしい徒歩の旅をした。こうした原はよく高山の低い傾斜面を掩うている。日本に非常に豊富なあの驚くべきほどさまざまな種類の植物が成長する場所は、こうした草原の地域とその草原によく隣り合ってる山の森林地帯とである。」

ウエストンはさりげなく書いているが、私はこの文章に彼の独特な眼差しを感じる。ウエストンはいわゆる里と山の間に「原(はら)」があることを認識している。今日では里山という言葉でひとくくりにされるが、彼は里と山の間に原があり、そこに日本の自然の特徴があることを見抜いている。野原という言葉があるが、かつて我々の先祖は「野」と「原」も微妙に使い分けていたという。彼の「原」への描写は、双眼鏡や顕微鏡などの「フィルター」を通して自然科学的に、分析かつ分類的に書くこともできると思うが、ウェストンは「歩いているうちにちょっと気づきました」という程度で優しく表現している。そこに彼の人柄も感じることができる。

それに対してどきっとするような文章が次のようなものだ。

「北尾根の安山岩の壊れた塊の上をはげしく登っていくと、私達の野営から一時間で常念岳の頂上に来た。こうして初めて外国人の鉄の踵がこのごろごろとした山頂に印された

ここで私が気になるのは、「鉄の踵が… 山頂に印された」という表現である。この文章のいわんとするところは、「外国人として常念岳の山頂に初めて登った」という素直な感慨だろう。もしそうであるならば、なぜウェストンはわざわざ「鉄の踵が印された」と表現したのか。それが文学的な婉曲的な表現のひとつであることは私も理解している。問題は、なぜ彼がそういう文学的な表現を選択したのかということだ。

鉄の踵というのはとても強い言葉だ。決して柔らかくも優しくもない。彼の言葉から私の頭には、常念岳の山頂に楔か鉄槌が打ち込まれたようなイメージが浮かんだ。もし彼が山頂にたどり着いた時の心境を表す言葉として選んだのならば、彼は山を登るということに強い目的意識があったのではないか。少なくとも山頂に達することにはかなりの目的意識が感じられる。つまり、山を「ピークハント」する意識が。

無事に常念岳登山を終え、世話になった村人と別れるときのことを彼はこう書いている。

「翌朝心ならずもこの人たちにサヨナラを告げて悲しい別れを告げた、そしてその時、子供達の別れの言葉と交じって繰り返し『どうかもう一度』と云ってくれた言葉が未だ耳に残っている。その昔この親切な国民が自分の国を好んで君子の国と呼んだが、この名がいかにこの未開化の日本にふさわしいかを感じないではいられなかった」

ウェストンの文章の真意は「日本人は本当に親切だった。子供たちが我々と別れを惜しんでくれたことはとても心に残っているよ」という好意的なものだろう。彼の文章から悪意は感じられない。「未開化の日本」という彼の認識は、当時の時代背景を勘案すると、イギリス人としてそういうものであっただろうと理解はできる。もちろん今の我々からすると決して喜ばしく受け入れられる表現ではないが…。

私がここで「未開化の日本」という言葉を引き合いに出したのは、彼の日本に対する見識を問いたいからではない。山を登り、その山頂に達した時に「鉄の踵が印された」と言った背景には「日本が未開の国」という認識をすでにウェストンが持っていた、そのことについて触れておきたいからである。

つまり常念岳の山頂に立った時に、彼の抱いた感慨は「開かれていない土地に自分は外国人として初めて立ったのだ」というものだったのかもしれない。果たしてウェストンは、山はあっても登らないという文化が日本にあったことを認識していたのだろうか。もしそうした古来の日本人の感覚を理解していたならば、自分が足を踏み入れることにためらいはなかったのだろうか。

ウェストンの山登りにはピークハントだけでなく、フロンティア・スピリッツ(開拓精神)もあったのかもしれない。

そう考えると、ウェストンが常念岳のみならず、日本の山々を次々と踏破したのは果たして「登るためだけだったのか」という問いも生まれてくる。いったい彼らは何の目的のために山を登ったのか。そのことについては、ここでは考えないことにしたい。かなり妄想が過ぎるし、仮説の上に仮説を重ねてみたところで得られるものはあまりないだろう。

山登りが一般的になっているいまの日本の現状を見ると、やはりウェストンの影響は大きいのだろう。ウェストンたち登山客一行を先導したのが熊狩りの猟師であったことを考えると、やはり当時の日本では「山に登るための登山」がなかったことが伺える。猟師が山に入るのは登るためではなく、狩りをするためだ。しかしどういう目的であれ、やがて日本には「みんなで山に登る文化」が広がっていくことになる。

【つづく…】

取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
由井 英 映画監督/ささらプロダクション

2006(平成18)年に、小倉美惠子とともに(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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