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時を動かす彼女

私は「ふるさと常念」の冊子を閉じた。私の部屋からもホテルの中庭はよく見えた。どこからか鳥がやってきて、中庭の木の枝に止まった。鳥は一声鳴くとすぐに飛んで行った。羽を休める暇もなかった。雨は今朝より激しく降っていた。

私は部屋を出て、一階のフロントに向かった。フロントには女性がいた。

「おかげで、部屋でゆっくり読むことができました」

そして、冊子を彼女に見せるように持ち上げた。彼女は「ふるさと常念」を一瞥すると、笑みを浮かべた。

「ところで、この冊子を分けてもらうことはできないかな。もちろん購入するという意味ですが」と私は言った。

すると彼女は混乱した表情を浮かべ、すぐに困惑した表情に変えた。見事だった。私は今もこのときの彼女を表情を思い浮かべることができる。誰かが彼女を女優にするべきだった。もしかしたら、セリフはうまくしゃべれないかもしれない。しかしそんなことはどうでもよかった。彼女はひとつの出来事に対して、複雑なふたつの感情を使い分けて表現することができた。瞬時に、しかも分かりやすく。

私がそんなことを考えていたのを、フロントにいる彼女は気づかなかっただろう。気づくわけがないのだ。彼女は本当に混乱して、困惑したのだ。彼女は冊子を私から受け取り、「少しお時間を頂けますか」と言って、フロントの奥の部屋に消えていった。「上の者と相談しないとお答えできないのです」とのことだった。

私は頷いた。

しばらくして奥の部屋から彼女が出てきた。

「大変申し訳ないのですが、この冊子は売り物ではないので、お分けすることはできません」と彼女は言った。

「なるほど」と私は思った。しかしそのまま引き下がるわけにはいかなかった。この冊子を本棚に返し、部屋に戻ることはできなかった。冊子は私の次の行動を決めるだけの材料を備えていた。それが何であるのか、私は確かめたかった。

「確かに冊子は売り物ではない。そもそも値段は書かれていない」と言ってわたしは彼女の顔色を伺った。彼女は表情を変えず私を見ていた。どこにでもいる几帳面なホテルのフロントの女性だった。そうやすやすと、自分の持ち味を人に見せるわけにもいかないだろう。

「地元の小さな本屋さんに行っても、ショッピングセンターの中にあるチェーン店の大きな本屋さんにいっても、おそらくこの本は見つからないでしょう。あのラウンジの片隅にある本棚に返せば、二度とこの冊子にめぐり合うこともないし、それきりわたしはこの冊子のことをすっかり忘れてしまうと思う」

と私は彼女に話をしながら、どこかにこの冊子を手にいれる手がかりはないか、必死に探していた。しかし次につなぐ言葉が出てこなかった。何か言わなければならないと思いながらも、私の口からはまったく言葉が出なくなった。私は黙らざるを得なかった。

彼女はおもむろに冊子を手に取り、ページをパラパラとめくり出した。後から考えると、その時の彼女の行動はやはり私の言葉を埋め合わせるための行為だったと思う。彼女は「常念坊物語」ページを開き、物語をさーっと読みと挿絵を見ていた。挿絵には、老僧の常念坊が小さな徳利を酒屋の主人に差し出している場面が描かれていた。酒屋の主人は飛び上がって驚いていた。

「わたし、この物語が好きなんです。おばあちゃんによく聞かされました」

私は黙っていた。いっそのこと、このまま黙る方がいいと思った。彼女はさらにページをパラパラめくり、最後のページになると、しばらく時間をかけて読んでいた。そして言った。

「ここに書いてある出版社に問い合わせたらいかがでしょうか。もしかしたら在庫があるかもしれませんね」

確かにその通りだった。ようやく、私の次の行動が決まった。

【つづく…】

取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
由井 英 映画監督/ささらプロダクション

2006(平成18)年に、小倉美惠子とともに(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。

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