新作映画「ものがたりをめぐる物語」とは異なる視点で諏訪を掘り起こしていくシリーズ「諏訪式」。現在まで、「そもそも」創刊号、第2号で特集記事として掲載してきました。このほど、諏訪清陵高等学校の石城正志校長先生のお招きで「諏訪式」について高校生にお話をする機会を設けていただきました。そのレポートです。


高校生はこれまで、地元の代表的な企業エプソンや様々な中小企業を訪ね、諏訪人の「ものづくり」の精神はどこから生まれてくるのか、その理由を研究してきました。その中で「そもそも|創刊号」に掲載されている「諏訪式。第1章ものづくり編」を読んでくださった石城校長先生が高校生の研究課題と合致するテキストとして採用してくださいました。高校生たちは地元の企業を訪ね歩く傍ら、諏訪式の近代ものづくり編を予め読んで臨んでいました。

seim2146

私たちは今回の講演の趣旨を主に次のように捉えていましたので、お話もそれに答えるように進めていきました。

1. そもそも川崎生まれの小倉がなぜ諏訪を取材対象として選んだのか。
2. 高校生の課題でもある「諏訪のものづくり」精神はどこから生まれてくると思うか。

小倉が諏訪式を書くきっかけは映画の取材にあったことはさきほど述べた通りなのですが、実はそれだけではありません。やはり「オオカミの護符」という作品が大きなウェイトを占めていたことは間違いないことでしょう。「オオカミの護符」は映画も本も「オイヌさま」とよばれるお札をめぐる関東の里びとと山びとのつながりを描いたものですが、そこに底流する本当のテーマは、近代化を先鋭化させた国策ともいうべき戦後の土地開発とそれによる村の崩壊、風土の喪失と言えると思います。

seim2168

かつて小倉が生まれた土地は、神奈川県橘樹郡宮前村土橋と言いました。明治の近代化以前は武蔵国に属しています。ですから、小倉の中には今でも川崎市民という意識はほとんどありません。むしろなだらかな小さな山々に抱かれ、清らかな水が湧く多摩丘陵の宮前村土橋という意識の方が強いでしょう。

戦後、川崎市域は海辺の方からまるで侵食するように北の多摩丘陵地帯に伸び、拡大していきました。その拡大を推し進めてきた要因のひとつに海辺に起こった大企業の進出があります。言わば、小倉の住む村を始め多摩丘陵一帯は海辺の大企業のみならず首都圏で働く人々のベットタウンとして計画されたのです。そうした国策になすすべもなく多摩丘陵の百姓は飲み込まれていきました。当時の時代背景を考えると、やむを得ないと思いつつも、

なぜ、自分の村は無くなってしまったのか。
なぜ、自分の愛した風土が失われたのか。

そのことが小倉の言葉にもありますが「消えることのない心の疼き」として残り、「オオカミの護符」という映画と本を作らせたのだと私は思っています。

ところが諏訪の百姓は養蚕から製紙業を起こし、新しい技術を自分のものとし、近代化の荒波を乗り越え、自分の村を守った。それを契機に現在まで続く地場産業がまるで草木が育つように足元から生まれた。

いったい、なぜ諏訪の百姓はそのようなことを成し遂げられたのか。

それが、小倉が諏訪に注目する大きな理由でしょう。特に「そもそも|創刊号」の近代ものづくり編は、そういた小倉自身が抱える問いを解き明かすものであったと言えます。 高校生たちには、そうした小倉の問いをどのように受け止めたのでしょうか。私は小倉の話を聞く彼らの眼差しの中にその答えを探ろうとしました。

seim2174

人によっては「風土」という言葉はあまり耳慣れないかもしれません。「自然」という言葉の方が一番ピンと来るかもしれません。最近では、環境とかエコロジーという言葉も似たような意味を含む言葉としてよく使います。しかしこの「風土」という言葉とその意味するものを大切に考えた人がいます。

それが、三澤勝衛です。

misawa

三澤勝衛の風土学のことは小倉も知っていました。むしろ戦後の高度経済成長期に自分の村が崩壊したと意識したとき、小倉の心の支えとなっていた考え方に三澤勝衛の風土学があると言えるかもしれません。実は、「そもそも創刊号」の取材過程でこの三澤勝衛が諏訪清陵高校(当時は長野県立諏訪中学)で教鞭をとっていたことを小倉は知ります。そして、今回、諏訪清陵高校に招かれての講演です。なんというご縁でしょう。私には密かに三澤勝衛が小倉を諏訪清陵高校へ引き寄せたのではないかと思っています。

実は三澤勝衛の風土学が、「諏訪のものづくりの精神」を生み出した源泉として重要な役割を果たしたのではないか、と小倉は捉えています。

小倉が高校生たちの前で述べたその理由を彼女の視点からここで紹介するのはかなり長くなってしまいますので、私なりの見解として最後にまとめてお伝えします。

三澤勝衛の風土学の特徴として、自分の足元の風土(自然)に向き合い徹底的に考察したことを挙げたいと思います。そこからその土地ならではの独自性を発見する目を養い、それが結果的に諏訪のものづくりを支える新しい技術を発想することに寄与していったのだろうと私は思います。

いつも見ているなんの変哲もない風景が、ある日、その時、その瞬間にしか現れないもののように思えてくる。日常の中にこそ独創的なものが潜むことを知る。そうしたことに気づくためには自分が生まれ育った風土(自然)は、「良い教材」になるのではないでしょうか。なぜならば、草や木も毎年同じように生え、同じ場所で育っているように見えますが、実はひとつとして同じものはありません。植物に限らず、命はそこに留まっているわけではなく常に動いています。そうした微妙な変化を捉える目を養うことが結果的に独創的な発見につながったのではないかと思います。

しかし、三澤勝衛が独創的な発想を生み出すために風土学を実践していたとは思いません。むしろ全く意識していなかったことでしょう。それでも彼が身をもって示した足元の風土を丹念に観察する姿勢は、結果的に諏訪清陵の生徒たちに大きな影響を与えていきました。そして、諏訪のことは諏訪に暮らす人が掘り起こすという「諏訪学」ともいうべき独自の学問が作られていったのではないかと思います。それは教壇に立つ三澤勝衛から直接学んだ稀代の考古学者藤森栄一や作家の新田次郎の業績を見れば明らかでしょう。

今の諏訪清陵生がもう一度、三澤勝衛に注目し、独自の見解で彼の風土学を読み解いていってほしいと思います。そこで磨いた見識は、やがて彼らが進むべき道を自ずと指し示してくれると私は思います。

文:由井 英(映画監督)

YOU MAY ALSO LIKE