2016.10.30 第6回 上映作品  

テーマ:暮らしの変遷について考える

映画:アカデミック版「オオカミの護符」 [2016年完成作品 ] 
監督|由井 英 制作|ささらプロダクション
話:小倉 美惠子(映画監督)
聞きて:大和田 泰子(スルガ銀行)

 KEYWORDS
映画を見て思い浮かんだ参加者の言葉

  • 「つながり」 山を通してあらゆるものと
  • 自然の恵みへの感謝と祈り
  • 御師、版木、赤飯
  • 「講」という言葉の成り立ちとは?
  • ままならぬ自然と暮らし
  • 山と里の往復を毎年繰り返すこと。
  • 新住民として地域に関わる機会はどこにあるのか?
  • 今では神様に捧げるお供物は買ったものなので「神様が喜ぶのかどうかね」という言葉
  • ベーら山にあった祠を引き取っていること。

※参加者の意図を伝えるために筆者が加筆している部分があります。

DISCUSSION
話し合い

 

  • シネマカフェにおいて、「オオカミの護符」は昨年に続き2回目の上映となった。前回は2時間近い長編作品だったが、今回は73分に短縮したアカデミック版を見ていただいた。映画「オオカミの護符」も公開からほぼ10年が過ぎ、現在では新潮社から出版されている本を読んでから映画を見る人も多くなった。また映画の主な舞台である武蔵御嶽神社に実際に足を運ぶ人も結構いるようだ。今回のシネマカフェの参加者もほぼ半数は既に「御嶽のお山」を訪ねていた。
  • 「オオカミの護符」の昔と今
    オオカミの護符は2008年完成作品である。完成当初と今では観客の映画の見方はかなり変わってきている。今回のシネマカフェでもそういう印象を持った。全く同じ映画にもかかわらず見方が変わるのというのは、人々の関心が変わってきているからだろう。そこには東日本大震災を含む各地で起こっている自然災害が我々の意識に変化を与えているのではないかと考えている。

    作品完成当時の映画の見方は、概ね「オオカミ」という獣に対する関心に集約されていたように思う。なぜかわからないが、我々は「オオカミ」という獣に対し特別な魅力を感じているようだ。オオカミに対して、どことなく気高さや孤高さといったイメージを抱いているのではないか。ところがこの映画は、そういった獣としてのオオカミに注目して描いてはいない。民俗学的にも、あるいは生態学的にも。そういった意味では、当初は観客の期待を裏切るような作品だったと言える。

    ところが最近、この映画に対する人々の関心は全く別のフェイズに変わってきている。それをあえて一言で言えば、「つながり」ということになる。人と人のつながり、人と獣のつながり、人と山のつながり、山と里のつながり、人と自然(風土)のつながり…

    今回のシネマカフェでもキーワードにあるように「つながり」に関する質問や感想が多く挙げられた。最近の傾向として特に都市部の上映会では「つながり」に寄せる関心が非常に高い。かつてそういったものを疎ましいと思う傾向にあった都市部でなぜ今「つながり」が見直されているのか。

    人々の関心がオオカミという獣から「つながり」に変化していった背景には、やはり東日本大震災の影響があると思われる。今年も各地で地震や台風などの自然災害が猛威を振るった。そうした自然災害の被害を各種報道によって見たり、聞いたり、あるいは実際に受けたりする中で都市部で明らかになったのは、「実は自分はどこにもつながっていないのではないか」という不安ではなかろうか。

    確かに都市部でも「横のつながり」はある。学校、会社、自治会などなど。しかしこれらのつながりは、今の時代を共に生きる人々が横に手をつなぎながら結ぶ、いわば「その人一代限りのつながり」と言える。例えば学校を卒業し、会社を退職すれば、その人は中に浮いてしまい、社会的につながる場を失ってしまう。実はそこにこそ、都市部の人の不安があるのではないか。

    しかし「オオカミの護符」を頂く御嶽講という「講」の行事の場合には、横だけでなく「縦のつながり」を見ることができる。かつての村落社会では自分を含め上下三代が暮らしの尺度として人々に意識されていた。つまり自分を起点に、上は両親、祖父母、下は子供、孫。祖父母が築いた信頼関係は余程のことがない限り、両親を経て自分を通じ、子や孫まで保証される。しかも注目したいのは、この縦のつながりは家族に留まらず、集落に広がると「斜めのつながり」へと昇華していくことだ。

    例えば、念仏講という行事がある。30軒ほどの集落があるとする。念仏講は、各家の戸主が亡くなった方の家に集まり、念仏を唱え、供養する行事である。ここで大切なのは念仏を唱えるのはお寺の坊さんではなく、集落の代表者(故人に所縁の強い人が選ばれることが多い)が念仏の音頭を取り、彼を中心に円座した戸主たちが数珠を繰りながら全員で唱和することにある。つまり、亡くなった爺さんを隣の家やその隣の家の子や孫が供養することが当たり前のように行われていく。

    ここで家をもとにした「縦のつながり」は同じ風土に生きる地縁を元に「斜めのつながり」に変化していく。こうしてかつての村落社会では、いわば時空を超え、縦にも横にも斜めにも張りめぐされた人のつながりが形成され、結果的に人は安らかな気持ちで過ごすことができた。

    しかしこうした村落社会の強固なつながりは、個人の生き方に照らした場合、確かに束縛する方向にも働いてきた。そこを脱却するのが戦後の都市社会の目標でもあったろう。しかし、これまでのようにかつての仕組みを否定的に捉えて一掃するのではなく、活かすべきは活かし、改善すべきは改善するのがこれからの本当の課題ではなかろうか。戦後、「転勤族」や「主婦」という特異な存在を作り出してきたと思われる企業社会にも村社会と似たような窮屈さや柵、理不尽さがないわけではない。

    そうした意味から「オオカミの護符」という映画に描き出された「講」という行事に改めて皆さんが注目しているのだと思う。そこにはもはや、村落社会の仕組みを封建的で古臭いと一瞥するような単純な見方は感じられない。

文:由井 英(映画監督)

【その2へ続く】

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