焚きしめられた鹿の肩甲骨(上の写真)|映像掲載許可:武蔵御嶽神社

武蔵御嶽神社で行われている太占は鹿の肩甲骨を焚きしめ、骨に入るヒビの様子から占う。太占は古事記にも登場する古い占いの方法だ。その太占が今に伝えられいる事実にまず驚いた。その太占を武蔵御嶽神社のご協力のもと映像記録として残せるのはとても貴重な機会だった。太占は秘儀であり、その姿は公開されていない。特に、鹿の肩甲骨を焚き上げる行程は、神がこの地に降り、占いを下す瞬間で、一切公開されていない。神社では非公開を貫いており、子子孫孫まで太占の儀礼が武蔵御嶽神社で厳粛に守り続けられることを心から願う。

現在、太占は農作物の作柄を占っている。古くは農作物のみならず様々なものごとを占ったことだろう。写真の作柄表(作況表ともいう)には、25品目の作物が書かれている。その下には数字で作物の実り具合を表している。数が大きくなるにつれて、作物の出来が良くなると考える。実際に、この作柄表を播き付けの頼りにしている「お百姓」がいると聞きいたときは驚いた。しかも作柄表からその年の天候を予測するという。映画ではそのお百姓さんに偶然出会い、天気を予測する見立て方を教えて頂いた。そのお宅の畑に「オオカミの護符」が掲げられていたのを見たとき、「何かに導かれている」のではないかとさえ思った。



平成18年と平成27年の太占

「十は一に返る」と言われ、一番良いのは「九」とする見方もある。
何事も「良すぎること」は、「悪くなる」前触れということか。

 

太占で気になるのは「骨」と「獣」だ。

改めて考えてみると、なぜ「人骨」ではなく、「獣の骨」なのだろうか。 「骨」はこの世(人の世)に「形あるものとして残る」ということが大切なのかもしれない。それに対し、失われるものは「肉体」と言えるのだろう。人知を超えた物事を推し量るため、この世を去った者の力や声を必要とし、残された「骨」を唯一の手がかりと我々の遠い祖先が考えたとしたら、その気持ちはわからないではない。「骨」はこの世とあの世のあわいに存在するものと考えたのかもしれない。現代人は「骨」よりも「肉体」に意識があることを考えると、どこで変わってしまったのだろうかという問いも生まれてくる。

「獣」についてはどのように考えられるだろうか。「獣」との関わりが薄くなった現代人にとって、いにしえの人々が「獣」にどのような意識を持っていたのかを想像することは、「骨」を考えるよりも難しいのかもしれない。それは農耕の歴史を遥かに遡り、狩猟の世界観に触れていくことであろうし、日本列島を離れて海を越え、大陸に意識を広げていく必要もあるからだ。オオカミのようなある特定の「獣」は、人の世に「何か大切なお知らせ」を伝えてくれる、教えてくれる存在と考えたのだろうか。オオカミの護符は人と獣の多様な関わり方を示すひとつの証なのだろう。

映画「オオカミの護符」は土蔵に貼られた一枚のお札から始まる。このお札を初めて見たとき我々が考えたのは、「お札に描かれるからには、オオカミはありがたい存在なのだろう」ということだ。そこには「人とオオカミが関わりを持ちながら暮らしてきた姿があるだろう」と。映画の終盤に三峯神社を訪れ、それを示す古文書とその古文書を証言するかのように、全く同じ内容を語る土地の古老に出会えた時は心が震えた。「オオカミの護符」という映画の終着点に辿り着いたという嬉しさもあった。 ニホンオオカミは絶滅したという。その原因には狂犬病が猛威をふるう中で数を減らしたことに加え、その病を恐れた人間が「殺めた」ことにもあるとされる。その一方で日本各地のお百姓が今なお「オオカミの護符」を家の各所や畑に毎年貼り替え、手を合わせているのを見ると、心が救われる気がする。

屋敷林に囲まれた家と畑 「オイヌさま」が見守っている。 (東京都調布市)


 

オオカミの護符 〜里びとと山びとのあわいに〜
2008年完成作品/114分
製作助成:文化庁
受賞:平成20年度文化庁映画賞 文化記録映画優秀賞 ほか
取材・執筆者
ささらロゴ 太(印刷)
由井 英 映画監督/ささらプロダクション

2006(平成18)年に、小倉美惠子とともに(株)ささらプロダクションを設立。2008年、映画「オオカミの護符―里びとと山びとのあわいに」で文化庁映画賞文化記録映画優秀賞、地球環境映像祭アース・ビジョン賞を受賞。2010年「うつし世の静寂(しじま)に」を劇場公開。現在、映画「ものがたりをめぐる物語」を製作中。