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埼玉県秩父郡長瀞町にはオオカミ信仰に関わる宝登山という山がある。早稲田大学人間科学部の学生と共に長瀞町を訪ねた。

長瀞町|早稲田大学人間科学部(原ゼミ)

長瀞町の先達

6月25日。梅雨の真っ只中で雨が降るのではないかと心配されたが、雲は厚く空を覆っているものの雨は降らないでいてくれた。私たちは長瀞駅で原先生や学生たちと待ち合わせ、早速本日の案内役・栃原嗣雄さんのお宅へ向かった。映画「オオカミの護符」以来、栃原さんと宝登山神社の禰宜・曽根原さんは、長瀞町はもとより秩父に足を踏み入れる上で私たちが頼りにしているいわば先達である。栃原さんのお宅は宝登山神社のまさにお膝元にある。そこからして代々神社との深い関わりをもってきたお宅なのだろうと想像する。

栃原さんはニコニコしながら学生を迎え、さっそく氏神様を祀る裏山に案内してくださった。そこには映画の中でも紹介している「お箱」を収めた祠がある。「お箱」は文字通り、木で作られた箱の形をしており、紙のお札より古い形態を残しているという考え方があることは以前書いたのでそちらを参照してほしい。

 

ohakoお箱を手に持つ栃原さん

 

戦後の地域開発を問い直す

学生たちとは長瀞町を訪ねる前、アカデミック版「オオカミの護符」を見て議論を重ねてきた。原ゼミの講義の中心課題は私の理解に間違いがなければ、戦後の地域開発のあり方を問い直していることにあると思っている。これまでの地域開発や観光開発のあり方はその土地に代々受け継がれてきた暮らしや文化に配慮してきたとは言い難い。むしろ目をふさいで見ないようにしてきたのではないかとすら思える。これからは従来型の方法を超えて、代々受け継がれてきた暮らしを中心に置き、今の暮らしに活用できるものを見つけだす目を養い、そこから新たな地域のあり方を見出したいと原ゼミでは考えているように私は感じている。

そこで私は「オオカミの護符」を見る前に、地域開発(開発人類学)を学んでいる学生たちに二つ問を投げかけた。ひとつ目は、なぜオオカミ信仰はこれまで続いてきたのか。二つ目は、なぜいま続けることが難しくなっているのか。この問いは「オオカミの護符」という映画を作り始めるにあたって私たちが自らに問いかけた疑問でもあった。その問いを考える手がかりとして、山に注目してもらいたいと伝えた。長瀞町には宝登山があった。宝登山はオオカミ信仰としての山の姿だけなのか、学生たちに改めて考えて欲しかった。また秩父の武甲山が辿った歴史と今の姿にも目を注いで欲しかった。

武甲山 昔2
武甲山(昭和初期)  写真家:清水武甲

武甲山 現在

武甲山 

山肌は筋状に削られ、かつての山の原型をとどめておらず、痛痛しく感じてしまうほどだ。良質な石灰石を蓄えた武甲山は戦前から採掘され、戦後首都圏のビル群を支えるセメントの原料ともなった。


宝登山
宝登山 山頂には宝登山神社の奥宮がある。

神仏習合の姿を今に残す

「お箱」を拝見した後、栃原さんは宝登山神社の禰宜、曽根原さんに引き合わせてくれた。曽根原さんから宝登山神社を語る上で忘れてはならない話を聞いた。宝登山神社の隣には玉泉寺というお寺がある。かつて明治以前に日本各地で見られた神仏習合の姿を今に伝えているのだ。ここで冒頭の座敷に座る学生たちの写真をもう一度見て欲しい。写されているのは玉泉寺のお堂の中だ。大切なのは廃仏毀釈という国中を揺るがした時代の風潮に流されることなく、長瀞ではこの土地の先祖が仏(ほとけ)を守ってきたことにあるだろう。学生たちはそこに長瀞の人々の特別な気概を感じたようだった。栃原さんは宝登山神社から「お箱」を借り受ける谷ツ平講の講元であり、宝登山神社の氏子でもあり、玉泉寺の檀家でもある。神と仏が一緒であった明治以前の日本の姿が当たり前のようにここで見られる貴重さに改めてここで注目しておきたい。

 

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宝登山神社


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社殿の前で語る曽根原さん

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玉泉寺

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お堂の入り口に注連縄を張っているのが見える。
神仏習合の頃の縁(よすが)が感じられる。

講中の正式参拝に見られる地域への入り方

栃原さんと曽根原さんが、秩父に足を踏み入れるための「先達」であることは先に触れた。昔で言えば、「わらじ親」ということになるだろう。お二人の縁を頼りに映画では三峯神社や猪狩神社へも訪ねることができた。かつては日本各地の村々を訪ねるとき、「わらじ親」という導き手を立てることが大切にされてきた。こうして筋を通して入ってきた者には、村の中からも一定の配慮がなされたことだろう。村落社会が閉鎖的と思われた背景には様々な理由があると思うが、筋を辿らず、身ひとつで不用意に足を踏み入れようとした側の問題もあるのではなかろうか。村の者からすれば、来るのを拒んでいるのではなく「筋が通ってない」ということなのだろうと思う。

例えば里の集落で講を組み、歩いて山を詣で、神社を参拝する際に、その導き手となるのは「御師」である。オオカミの護符でも描いているが、講中は山頂の神社に詣でる前に一旦、御師の宿坊に立ち寄り、その後御師の導きにより「お山」に登っていく。講中が宿坊に立ち寄るのは、休息を取るだけでなく、里びとが御師を先達に立てることで、筋を通したことを示すためだろうと思う。そうした心配りが行事の中のひとつの行為として受け継がれてきたのではないか。そこに村人の山に住む者に対する配慮があった。こうした配慮はいつの間にか(個人的には戦後の土地開発の頃からだと思う)我々の暮らしから消えていってしまった。結果的に我々は村の入り方、山の入り方がわからなくなってしまった。

学生が宝登山神社に迎えらた時、花火が打ち上げられた。講中を歓迎し、周囲に講中の到着を知らせるための徴(しるし)だという。秩父で花火といえば龍勢を思い出すが、講中を迎えるときに花火を上げるのは宝登山神社の特徴なのだろう。空高く上がった花火が破裂する音は、思いのほか大きい。「宝登山神社に講中がお参りに来たのだろう」と長瀞町の人々が知るには十分な音と言える。花火の打ち上げは、早稲田の学生が神社の参拝者として正式に迎えられたことを示している。我々が頼ってきた長瀞の先達とのつながりが学生たちに継承されたということにもなり、嬉しく感じた。

学生は前述の玉泉寺のお堂に迎えられ、お話を聞いた後、神社で正式参拝することになった。おそらく玉串を奉納するということは初めての経験だったかもしれないが、事前に曽根原さんの説明を聞くことで具体的な作法だけでなく、その意味もしっかり理解できたことだろう。正式参拝を経て、いよいよ宝登山に登り奥宮を詣でることができる。

 

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宝登山と奥宮

宝登山神社では毎月七日に御炊上神事が行われる。オオカミにお供物を捧げる神事である。早朝、社殿の中で火打石を切り、忌火が起こされる。この清浄な火で社殿の前に設えられた釜の火を起し、白粥が炊かれる。粥は他のお供物とともに宝登山の山頂に鎮座する奥宮に運ばれる。お供物は前出の写真の岩の上に供することでオオカミに捧げられる。

我々が初めて宝登山神社を訪れたのは、この御炊上神事を撮影するためだった。一連の行事は頭から最後まで映像に記録したが、結局映画には盛り込むことはできなかった。御炊上神事はオオカミを信仰する秩父の多くの神社で今も行われている。ニホンオオカミは絶滅したと言われるが、こうしたオオカミに御供物を捧げる神事が今も行われ続けている姿に奥ゆかしさを感じる。

 

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岩の上にオオカミへのお供物が捧げられる

 

ところで宝登山という名前にはどのような由来があるのだろうか。諸説あるだろうが、女陰を表す「ほと」から来ているとは考えられないだろうか。秩父の山々はおおむね山肌がゴツゴツしていて猛々しく、それだけに男性的な印象を受けるが、宝登山はなだらかな稜線を持つため女性的な優しさを湛えて見える。宝登山を「ほと」という言葉に結びつけるのは推論がすぎるかもしれないが、かつての先人がつけた名前にはいろいろ触発されるヒントがあり、あれやこれやと考えをめぐらしてみるのはとても楽しい。

終わりに

宝登山の山頂まで登ると、厚い雲から時折陽射しが差し込むようになっていた。しかし残念なことに、武甲山はその姿を私たちに見せることはなかった。最後に岩畳を見て、今回のフィールドワークを終えることにした。今回の旅を経て、早大の学生たちがどのようにレポートをまとめるのか、楽しみにしたいと思う。

 

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取材協力:栃原嗣雄/宝登山神社
文/写真:由井 英