2017.8.9   2017.8.17【更新】    

信州風樹文庫創立70周年記念講演会のレポートです。

スライドには紙芝居の絵が映されています。演台に立つ人の話を沢山の人々が床に座って熱心に聞いています。よく見ると、背広姿の大人の男たちに混じって若い青年たちや着物をきた女性たちの姿も描かれています。今では男と女が同席して講演をきくことは当たり前の姿です。しかしこの絵が終戦の翌年の様子を描いたものだと聞くと特別に感じます。そこに信州諏訪の、特に中洲村の特徴が見えてきます。

中洲村の女は働くことだけではなく、男と同じように学ぶこともできたのでしょう。男の影に隠れることなく本を読み、講演会に出かけて人の話に耳を傾け、文化に親しむことができました。中洲村ではもしかしたら日本の他のどの村よりもそういう雰囲気があったのかもしれません。実際、女性の識字率も高かったようです。

信州風樹文庫は現在の諏訪市中洲にあります。この辺りはかつて中洲村と呼ばれていました。この村からは多くの文化人が生まれました。まず挙げなければならないのは岩波書店の創業者、岩波茂雄でしょう。長男でありながら田畑を売り払い、母に匿われるようにして山を越えて村を出て行きました。やがて茂雄は岩波書店を起こし、沢山の文人や学者の言葉を世に送り出す輝かしい功績を築きました。しかし茂雄は故郷・中洲村をずっと想い続けていたに違いありません。茂雄は村の行事にも関わり続け、水道などのインフラ整備にも多額の支援をし、村に多大な貢献をしました。そのあたりの詳しいことは小倉が「そもそも」2号で書いているのでそちらを読んでほしいですが、その書き出しに登場する中洲の古老の言葉にも現れています。

 「〝茂雄さぁ〟のことを悪く言う人は誰もいねえだよ」

今は亡き村の先人を親しみを込めて「茂雄さぁ」と呼び、その岩波茂雄に惜しみない感謝を表す古老の姿には、明治に中洲に蒔かれた文化の種が今も大切に育てられ続けていることがわかります。こうした中洲村の豊かな土壌から先駆的な女流文学者の平林たい子や労働者を支援した伊藤千代子もまた生まれていったのでしょう。

紙芝居の絵には、信州風樹文庫が生まれる大切な瞬間が描かれています。縁台に立つのは藤森朋夫。同じ諏訪出身(四賀村)の国文学者で万葉集の研究に取り組み、島木赤彦や斎藤茂吉に師事しました。もちろん岩波書店とも深い繋がりを持っていました。写真の中で向かって一番左の奥に立っている人物が藤森朋夫。

雑誌「文学」の座談会を終えて(1935年6月)
前列左から、安倍能成、寺田寅彦、幸田露伴、和辻哲郎、
中列左から、島崎菊枝、小林勇(岩波書店)、西尾実、
後列左から、藤森朋夫、斎藤茂吉、野上豊一郎、茅野蕭々
写真出典:写真でみる岩波書店80年|岩波書店より

その藤森朋夫の講演会に参加し、話に耳を傾けている中洲村の青年に、平林忠章という人がいました。平林さんは藤森朋夫から「岩波茂雄の出身地に岩波書店の本がないというのは残念だ」という趣旨の話を聞き、何かピンと来るものを感じだといいます。このピンと来るものをきっかけに信州風樹文庫は生まれることになります。その経緯については今回の講演会で上映されたインタビュー映像をご覧いただきたいです。ちなみに藤森朋夫の講演会は中洲村の青年会と「婦人会」が共催したといいます。ここにも中洲村の婦人たちの文化に対する志の高さを感じます。また終戦を迎えた中洲村の青年には、戦後は「武力ではなく、文化の力で日本を盛り上げたい」という気持ちがあったという平林さんの話はとても印象に残ります。

小倉の講演のタイトルは、写真に見られるように、「諏訪人 〜やり抜く心と風樹文庫〜」 。諏訪人は、自らの風土に根ざしながら守るべきものは守り、「外の世界」と上手に関わりを持ち、創意工夫を重ねながら、そうした力をいつのまにか自らのものにしていく。「外の世界」というと、例えば東京などの「大都市」や「地域」の規模を遥かに超えた「国」などがあげられるでしょう。

自分よりも大きな力を持つ存在と渡り合っていく場合、普通はなすすべもなく飲み込まれてしまいます。小倉にとってそれが多摩丘陵に根ざす自分の村でした。小倉の村は工業都市川崎(かつて工都川崎と呼ばれた)に飲み込まれた小さな村でした。同じ百姓なのになぜ諏訪人は大きな存在と伍して行けたのか。小倉が諏訪人を見るとき、常にその問いが心にありました。

中洲村の百姓には東京湾に出かけ海苔の養殖の仕事に携わる人も多くいました。今でも大田区の大森界隈で海苔を販売する商店には、諏訪に縁(ゆかり)の「苗字」を目にすることができます。五味商店、金子海苔店、守矢武夫商店、岩波海苔店、藤森商店… そうした看板がスライドに映されたとき、会場から「あ〜」と言う声が上がりました。

なぜ山国の諏訪人が海産物の「海苔」で商売することができたのか。なぜ隣の茅野市では同じく海産物のテングサを使い、寒天作りが盛んなのか。なぜ岡谷市では国が主導になり上州で始められた製糸業をさらに発展させることができたのか。

そこにはきっと様々な理由があると思います。その一つに、外の力を自分のものにしてしまう諏訪人の秘訣が関わっているのではないかと小倉は考えているようです。その秘訣を今後さらに明らかにして欲しいと思います。

文:由井 英(映画監督)

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