畑に立つことへの気遣い

2019.2.8のものがたり

入田さんの畑仕事には他のスタッフとは違う「思い入れ」が感じられた。私はいつも入田さんと一緒に畑に立ちながら「そこにはどんな思い入れがあるのだろうか。どうして畑に気持ちがあるのだろうか」と考えていた。それが私が入田さんに心を開いていったきっかけである。

正直に言うと、私とmicoさんが一番違和感を持ったのは、家族以外の人が「畑に立つ」ことだった。私自身は「一枚の畑」に関わる家族ではないが、micoさんよりもその気持ちが強かったと思う。今でもそうした気持ちが無くなったわけではない。

きっと私にもmicoさんと同じように「百姓の子」という意識が強く働いていたからだろう。micoさんは多摩丘陵に抱かれて代々暮らして来た百姓の家系に生まれ、私は信州の八ヶ岳が聳える麓の寒村で生きて来た百姓の子だった。

好むと好まざるとにかかわらず、自分の出自に絡む劣等感にも似た意識はその後の私たちの生き方に付き纏った。そこから逃れようとし、それぞれしばらく外国で暮らし、なぜか引き戻され、宿命的に出会い、今に至っている。マンションが林立する街中にポツンと残された「一枚の畑」に立つとき、

「いったい私は何をしているのだろうか」

と思うこともある。八ヶ岳の麓には両親が拓いてきた畑が残されている。そのほどんどが他の人に貸し出されているが、家の周りの畑だけは今も年老いた両親がトウモロコシや大根などを作っている。私も兄貴も百姓を継がなかったからである。

かつて百姓にとって畑は自分自身であり、自分と分けては語ることのできない存在であったろう。そうした「百姓の懐」に入るためには、それなりの覚悟と配慮が必要なのではないか。それを畑に立とうとする人にどうしても要求してしまう自分がいるのを隠せなかった。(micoさんが書いた「オオカミの護符」という本に、「わらじ親」について触れている一節がある。我々の先祖は、そうした配慮と覚悟を持った人を拒むことはなく、縁のない他人であっても村に受け入れて来た。詳しくは本を読んでほしい。)

そのため、私たちスタッフの中で一番畑仕事に思い入れがある(と私が勝手に思っている)入田さんであっても私には抵抗があった。それでもmicoさんは、

「入田さんに畑に立ってもらいたい」

と私に言った。言葉にならない言葉を重ね、なんとか自分の気持ちを私に伝えようとした。しかし私には、micoさんの気持ちがわからなかった。あれほど、他の人を畑に立たせることに対して慎重だったというのに。

「なぜ今ここに畑があるのか、この畑はだれが守って来たのか。そこにはどのような苦労があったのか」

この世に姿はなくとも多摩丘陵で生きて来た百姓の気持ちに寄り添えない人たちや彼らの「声なき声」を聞き取れない人たち、単に農業体験をしたいという全く個人的な楽しみ(そのようにしか私には思えなかった)から畑仕事をしたいという人たちには「一枚の畑」には立って欲しくはないと言って来たのに…

今でもその時のmicoさんの気持ちを推し量ることはできないが、結局、入田さんを含め、みんなと畑仕事をすることになった。micoさんがあれほど私に主張し、気持ちを強く表すことは稀だったからである。

「きっと私には見えない何かをmicoさんは見ているのかもしれない。感じ取れない何かを感じ取っているのかもしれない」

と私は思った。

私にはこれまでに映画制作の上でも本づくりの上でもそうしたmicoさんの感性を単に納得するだけの論理的な理由がないというだけで切り捨てた挙句、道を誤った経験があった。

結果的にそれまで「一枚の畑」に立つことを執拗に拒んできた私もまた、畑仕事をすることになった。皆で畑に立つに先立ち、私からmicoさんにお願いしたことがあった。それはmicoさんのご両親や弟さんの誠一さんから私たちが畑を使うことの了解を得ること。幸いなことに、みなさんは快諾してくれた。おそらく、その答えの奥には複雑な感情が入り混じっていただろうが。

こうして私は、入田さんやみんなと一緒に畑仕事をすることになった。最初は毎週土曜日に都合が付く人が集まり、畑仕事をすることになった。そのうちに、入田さんは可能な限りもっと畑に立ちたい、畑仕事をしたいという希望を私たちに伝えて来た。

私はその気持ちが「個人的な農業体験」に由来するものなのか、他に理由があるのかわからないでいた。その頃、私は外国で放送する特集番組を製作しており、micoさんはいくつか執筆を抱えていたので、土曜日以外に畑仕事をすることができないのは明らかだった。そのことを率直に入田さんに伝えると、

「どうぞ私にはお構いなく、お仕事をなさってください」

と言った。

それから入田さんは真夏の炎天下でも、一人で畑に来て黙々と仕事をし夕方になると帰って行った。帰りがけにチャイムを鳴らし、

「今日の仕事は終わりましたので帰ります」

と笑顔を浮かべ、私たちに声をかけて帰っていった。ところがある日を境に仕事終わりのチャイムが鳴らなくなった。入田さんはバタンと車のドアを閉め、ブーンとエンジンをかけて車を畑の周りの坂道に乗り出し、颯爽と帰っていった。

micoさんにその理由を尋ねると、私たちの仕事の邪魔をしたくないから

「今後はチャイムを鳴らさないで失礼します」

と言われたという。

私は番組の映像編集作業に疲れるとiMacの27インチ画面から離れ、2階の部屋の窓から下の畑で働いている入田さんの姿を見ることがあった。一日中、ひたすらに草取りだけをする日もあった。そんな時、私は思った。

「そこにはどんな思い入れがあるのだろうか。どうして畑に気持ちがあるのだろうか」

ある時、入田さんと私とmicoさんの三人きりで話す機会があった。なぜそうした時間を共に過ごすことになったのか今では覚えていない。仕事の合間のちょっとしたお茶の時間だったのかもしれない。私は心の内にしまっておいた言葉を口にした。

「なぜそんなに畑仕事をしたいのでしょうか」

入田さんは、キョトンとした顔をした。たぶん私の質問の意図を汲み取れなかったのだろう。「なぜそのような質問をするのか」と不思議に思ったかもしれない。あるいは、質問の裏に潜む私の出自に由来した畑仕事に対する抵抗感を察知したのかもしれない。私は同じ質問を別な言葉に置き換えて繰り返した。すると入田さんは窓際から見える不知火(デコポン)の木の方を向いた。畑には不知火、日向夏、文旦などの柑橘樹が植えられていた。それらの枝葉がどこからともなく吹いてくる風にさらさらと揺れていた。もしかしたら入田さんはもっと遠くを見ていたのかもしれない。私には見えない遥か遠くの世界を。不知火の枝葉を通して。そして入田さんは私に少し心を開いてくれた。

入田さんは長らくSE(システムエンジニア)として働いてきたという。名前を聞けば誰もが知っている大企業で何千人単位で一つのプロジェクトに取り組んできた。

「百人単位で仕事をすると誰かが大きな怪我をし、千人単位で仕事をすると誰かが死ぬこともあるんです」

と入田さんは言った。

私は百人、千人単位で仕事をしたことがなかったので、どのように仕事を回していくのか全く想像がつかなかった。たくさんの人が滞りなく仕事をこなしていくための計画を立てることに体力的にも精神的にもかなりのエネルギーを費やしたことだろう。命を削りながら仕事をしていたに違いない。それが入田さんの仕事だった。その仕事を入田さんは定年退職前に辞めた。

「大きなビルの暗い地下室のような場所に寝袋を持ち込み何日も寝泊まりして仕事をしたこともありました。今そのビルの中で働いている社員たちは知らないでしょうけど」

と入田さんは言った。

私は写真の現像室のような暗い場所を思い浮かべた。そこで寝泊まりした人たちは眠りに入る前のひととき、寝袋の中でどのようなことを考えたのだろうか。家族のことを思っただろうか。故郷の両親のことを思ったのだろうか。自分の子供頃のことを思い出しただろうか。

「自分で畑を耕して作物を作り、自分の作った作物で料理を作り、皆さんに食べてもらって喜んでもらう。それ以上に幸せなことがありますか」

と入田さんは言った。

それは私の問いに対する答えのようでもあり、自分自身に話しかけているようにも聞こえた。それが百姓の暮らしそのものであったことを私は思い出した。私が幼い頃から出来るだけ遠ざかりたいと思っていた百姓の世界観だったことを。

そうした小さいサイクルを取り戻すところからもう一度始めてみたいのです

と入田さんは噛みしめるようにとても穏やかな口調で言った。そこに私は入田さんの優しい人柄を感じた。

私もmicoさんも、そして入田さんも、私たちはこれから始まるのかもしれない。いや、私たちはすでに始まっている。谷戸の下で、土曜日の会で、一枚の畑で。

写真:畑仕事をする入田さん(2018.6.19 撮影)

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