オオカミの護符の申し子たち

2019.4.5 春ものがたり

それは一本の電話から始まった。普段、私が電話に出ることは滅多にない。その私がその時はなぜか自然に受話器に手が伸び、電話に出た。会社名を名乗ると、相手はしばらく間をおいて「私はオオカミの護符の本を読んで、映画も見ました。」と穏やかな口調で話し出した。私は率直にお礼を言った。すると、

「なんというか、罪悪感にかられました」

と言葉を重ねてきた。私は不意を突かれた。頭の中で「オオカミの護符」という作品と「罪悪感」という言葉を繋ぐ導線を必死に探った。

声の感じからすると、私より若いような気がする。30代だろうか。少したどたどしい話ぶりから、普段饒舌に話するようなお人柄ではないだろう。むしろあまり話をするのは好きではない方ではないかと思えた。しかしそれだけに、言葉には気持ちがこもっていた。さらに言えば数少ない言葉の裏に潜む「世の中の見方」に興味を引かれた。私は受話器を耳に強く押し当てた。いったいどんな罪悪感を作品から感じたのだろうと頭の中で考えているうちに、話題が次に移っていった。

「映画の中で、調布のおじいさんが出てきましたが、暦を読み解く…」
「農作物から天候を予測するおじいさんですね」
「そうです。ああいった方にはどのようにして出会えるのでしょうか」

私は即座に、「どのようにして出会えるのでしょうか」という言葉の真意が単に電話番号や住所などの連絡先を教えてもらい、訪ねて話を聞きたいというような単純な興味からではなく、

「ああいった方がいるとしたら、この私も出会うことができるのでしょうか。

というご本人が心の内に秘めてきた根源的な問いのように思えた。

私は映画を見ただけではわからないそのおじいさんとの出会い話を少し紹介しながら、6月から予定している「土曜日の会」という私たちの催し物をご案内した。相手の方は、「ぜひ行きたいです。お話が聞きたいんです」と言った。そして私が電話で丁寧に対応したことに対し感謝の言葉を述べ、電話を切った。

罪悪感という言葉には、「埋めきれない二つの世界」があるように感じられた。こっちの世界とあっちの世界があり、現在自分が暮らしている世界と自分が生まれる前から続いている世界が意識されているように思えた。そして、「ああいった方」は、あっちの世界の人であり、自分が生まれる遥か前から代を重ねて風土に根ざして生きてきた百姓のことを言っているのだろう。

きっと自分たちの今の暮らしが彼らの暮らしを失わせてしまったのではないかという罪を直感的に自覚しながら、それでも(あるいは、それゆえ)彼らに出会いたいと願っている。なぜならば、百姓に対し、

「いったい私が(私たちが)どのような決定的なダメージを与えたのか」

その理由を探りたい、探らないわけにはいかない、と思っているからではないか。

電話をくださった方、ありがとうございました。土曜日の会でお目にかかれることを楽しみにしております。

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