「あこがれ」と「うしろめたさ」の間で
主催:土曜日の会
共催 / 会場:珈琲&レストラン アンジュ
開催日:2024.06.29 Sat
今年は戦後日本のターニングポイントとされる1964年の東京オリンピックからちょうど60年。この間、ひたすらに経済発展を基軸として「あこがれ」を実現し、恩恵も受けてきました。反面「何か置き忘れてきたのではないか」、若い世代も「自分たちは何かを犠牲にしているのではないか」という「うしろめたさ」を抱えるようになっています。その「うしろめたさ」はどこから来るのか。
古来に倣い60年の節目を「首都圏還暦」と呼んでみると、異なる風景が見えてくるかもしれません。巡る暦の中にあった「江戸」の知恵を田中優子さんとひもときながら、「この地域のこれから」について考えたいと思います。(⼩倉)
「土曜日の会」第3話を終えて
田中さんが江戸学の研究者の道に進むきっかけに、藤原新也さんの著作「東京漂流」があったとは知らなかった。その本は、小倉にとっても忘れることのできない本だった。三人に共通しているのは、喪失感。自分たちが大切にしていたかけがえのないものが、いつの間にか、すっーと何かに置き換えられ、目の前から姿を消していく。
藤原さんの手元からは、生まれ育った門司の旅館が取り壊された時に連れ出した「猫」が逃げ、田中さんの場合は、住み慣れた長屋の改築とともに「いちじくの木」が伐られる。その場所が自分と兄の勉強部屋の建物に変わっていく。「なんだか変な取引だな」と田中さんは感じたという。小倉の場合は、毎日のように心を通わせてきた多摩丘陵の「なだらかなお山」が、次々と直線的に削られ、家やマンションが所狭しと立ち並ぶ姿に変わったこと、と言えるのかもしれない。
だが、彼らはそれらの出来事を「何かの象徴」に過ぎないと捉えていることも共通している。あの瞬間、私だけが失ったのではなく、誰もが失ったものがあると。その象徴の裏には、いわく言い難い、何かが姿を潜めていると感じている。
だからこそ、まるで本のページをめくるように次から次へとその出来事をやり過ごすことができない。いや、ページを開いたまま、めくることができないのだ。藤原さんはインドに出かけ、田中さんは江戸を掘り下げ、小倉はアスファルトに埋もれた風土の声に耳を澄ましている。
猫、いちじく、お山。
私たちは何を失ったのか。それが何に置き換えられたのか。
いつか、どこかに、彼らが漂着する日は来るのだろうか。
(由井・土曜日の会)2024.7.7