『ものがたりをめぐる物語』の完成上映会が、昨日、諏訪市であったので、観てきた。この映画のプロデューサーの小倉美恵子さんとは、以前、私が『信濃毎日新聞』の書評委員を務めていたときに、2012年に、同名の映画を書籍としてまとめられた『オオカミの護符』の書評を『信濃毎日新聞』に書いた時からのつながりがある。
https://www.shinchosha.co.jp/book/126291/
その最後の部分で「3・11以来私たちの価値観が大きく変わっていく中で、都市の中にも、古層として、確固とした形で沈殿している私たちの自然や神との原初的なあり方を見いだし、私たちの「いのち」の問題を根底的に問いなおすことができるということを実感し、未来に向けて考えることができる根源をそこに見い出すことができるということで、大変意義深い本であると思われる。」と書いたが、今回の映画は、まさに、その先の世界を表現しているのかなと思った。
小倉さんは、今回の映画に関連した取材で、『諏訪式。』を上梓されている。その内容は映画の内容と基本的に重ならないが、諏訪に対する思いが凝縮された本で、最近は、その内容を「幻燈がたり」という形で講演されている。(先日の岡谷での会は私が体調を崩して逃してしまったが、いつか拝見できると思っている。)
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=975
さて、この映画は前編と後編に分かれていて、前編に関しては有償でネットで観ることができる。その時の感想を、HomeTownNoteの掲示板の方に下記のように書き込んだ。
https://www.hometownnote.com/post/102
「小倉さんの『諏訪式』で、諏訪を舞台に映画を作られていると伺っていましたが、各場面が、私がいつも大事で本質的だと思っていることに突き刺さるように展開していくのに揺さぶられるように拝見しました。富士山の問題は、志賀重昂の『日本風景論』もそうですが、当初は日本画の近代化を担い、朦朧体で描いていた横山大観がちょうど同じ頃から富士山ばかり書くようになり、最後は、海山十題で戦闘機の「大観号」に至る過程に重大な課題を感じていましたが、それぞれの地域の風土の富士山が国家の象徴になってくることの意味と、ベルクさんのコメントはとても意義深いものだと思っています。
「ものがたりをめぐる物語」前編 地下の国へ より
ビーナスラインの反対運動は、純粋な「自然」ではなく、旧御射山神社の遺跡の風土に根ざした文化遺産に関わるものであったことの意味は、以前から大変重要なことであり、人間と自然と文化を風土という視点から捉えていくとても重要なことだと思っていましたので、それらの重要なことが編み込まれるような形で映像詩を構成していることに、大変共感を持ちました。
グローバル社会の行き着く最後のところで、現在のウクライナの戦争がありますが、環境問題とかそういう問題ではなく、これからの私たちの生きる先のことに関して、この映画で提起していることは、私も深く共感を持ち、だからこそ、これから生きていくための原理は何かということについて深く考えているところです。後編を大変に楽しみにしております。」
それに対して、監督の由井さんから反応があった。(公開の掲示板での反応なので引用する)
「私たちは誰もが日常的に、意見が噛み合わないことに悩み、異なる価値観に直面して苦しい思いもします。「きっと分かり合えないのではないか」と落胆することもしばしばあります。しかしある時、そうした対立を超えて、どこか別の場所に一緒に至ることがあります。そしてその時に、「異なる他者がいたからこそ、ここに至れたのだ」とお互いの存在の本当の意味を実感します。そんなことを考えながら「甲賀三郎」という物語を映画の題材に選んだことを鬼頭さんのコメントを何度も読み返しながら思い出しました。後編もぜひ御覧ください。この映画の結末がどこに至るのかを。」
私の返信
「由井さん、返信コメントありがとうございます。「「異なる他者がいたからこそ、ここに至れたのだ」とお互いの存在の本当の意味を実感します。とお互いの存在の本当の意味を実感します。」の辺りについて深い共感を覚えます。現在のさまざまな問題を解き明かしていくための糸口がここにあると思っています。
自然との関係も、「分かり合えない」他者との関係が基本だと思います。何度も呆然と立ち尽くすしか無いような大災害に対して折り合いをつけつつも、深い関係性を築き上げてきました。この映画が陸前高田での東日本大震災と諏訪神社に心を馳せながら、愛宕山のことを取り上げられていることの意味を感じました。
世界では、異なる他者の存在を認めない、そのことによって「快適で」「安全な」社会を実現するべきだという考え方が人々の心を捉え、そのことが現在のウクライナ情勢を一つの象徴としているようにも思います。「異なる他者がいたからこそ、ここに至れたのだ」と思える人間のあり方を考えたときに、そこで「風土」に立ち戻らなければならない「いのち」のあり方の意味を感じます。私自身も、そのことをどのように形にしていくべきかということを考え続けています。」
そこで、今回の諏訪での完成上映会が開催された。完成上映会は東京ではなく、諏訪と陸前高田でというのは、この映画の取材地との関係性と、この映画が表現されている内容を考えると、なるほど、流石だと思い、その完成上映会に、近くで観ることができたことに深く感謝している。
前編と後編と改めて続けて観て、基本的には変わらないにしても、さまざまなディーテイルで感じ方が違うものだなあと改めて思った。また、会場での大画面ということもあり、その映像の素晴らしさには改めて深く感動した。この映像は、この映画が描きたいものと深い関係がある。
風土を殺してきた近代を経て現在生きている私たちに対して、改めて、風土の取り戻しを、昔に帰るということではなくどう考えていくべきかということを問うている。
前編では、風土を殺してきた二つの層を描き出す。ひとつは、富士山と志賀重昂の『日本風景論』で、それぞれの地域の風土の国家的統合と地域の故郷の重層性の喪失という形で、もう一つは、文字通りの高度経済成長を背景にした自然そのものと、その精神的な拠り所の破壊という形で。
前編では、ビーナスライン建設反対運動を取り上げ、後編では、陸前高田の広田湾干拓事業の反対運動を取り上げている。二つの反対運動では、前者は、旧御射山神社を巡る精神世界、後者では、「美しい郷土」ということで表される広田湾における度重なる津波などの災害も含めた形での荒ぶる自然の豊かさがあっての漁師の生業のあり方が描かれている。
その中で、象徴的で素晴らしい映像は、陸前高田の気仙川に架る板橋(流れ橋)の、地元の人たちによる再生ということが、災害の復興とはかくあるあるべきという形で、静かにゆったりとした時間の中で描かれる。諏訪では、甲賀三郎伝説にかかわる形での神渡りの映像が素晴らしい。温暖化の影響でここ数年見られず、寒波が来た今年も見られなかった、その最後の神渡りが、地元の人たちの関わりがゆったり静かに描かれるとても美しい映像がある。そして、最後の太陽柱の映像。
映画「ものがたりをめぐる物語」より
この映画が、このような自然の稀有な時間をうまくとらえることに恵まれていたこと。いろんな意味で感慨深い。また、改めて、諏訪でこの映像をもう一度見たいものだ。また違うことを感じるかもしれない。
鬼頭秀一さん(東大名誉教授/三人委員会哲学塾)のFacebookより
文章の間の画像は、ささらプロダクションが追加しました。
鬼頭秀一さんのコメント|諏訪市文化センター映画会